逆転のPL!甲子園の奇跡は真夏の昼下がりから始まった!
甲子園のレジェンド・PL学園
2013年の夏は残念ながら出場辞退となったが、高校野球を代表する名門校としてまず名前が挙がるのが大阪のPL学園だろう。春3回、夏4回で計7回の優勝を誇り、特に1980年代に猛威をふるった。また、プロ野球選手を最も多く輩出している高校としても知られる。
だが、PLが甲子園のレジェンドと成り得たのは、単に強いからとか、スター選手がいるから、だけではない。甲子園で数々の奇跡を巻き起こしたからである。その奇跡に対し、人々はこう呼んだ。「逆転のPL」と。
「逆転のPL」の伝説が始まった試合
1978年夏、当時の筆者は小学五年生だった。この日の準決勝でPLは、甲子園最多優勝を誇る愛知の中京(現・中京大中京)と対戦する。筆者はPLが所在する富田林市で生まれ育ったので、PLの応援で父親に連れられて甲子園に行った。とても暑い日だったと記憶している。
当時のPLはまだ甲子園優勝の経験がなく、夏に2度の準優勝があるだけだった。好選手を揃えながら優勝できないPLに対し「万年優勝候補」という有り難くないニックネームを付けられていた。この頃はまだ「勝負弱いチーム」というイメージだったのである。
この日も中京の一方的なペースで、9回表を終えた時点で0-4と中京がリード。9回裏、PL最後の攻撃は四番でエースの西田真次(現・真二。後の広島)から。この時、球審の西大立目 永は「この試合はすんなり終わらないのではないか」と予感した。
午前11時から始まったこの試合、午後になってますます暑くなり、しかもこれだけ点差が離れているのに、PLの試合では客が席を立たない。何か起こるのでは?と思ったという。もちろん、この時点で「逆転のPL」の異名は付いていない。
筆者ももちろん席を立たなかった。すると西田は初球を叩いて右翼線三塁打。これが反撃の狼煙となり、2点を返してなおも二死満塁と攻め立てた。
カウント3-2となって渡辺勝男が放った打球は二塁内野安打、さらにフルカウントだったため走者は一斉にスタートしており、三塁走者に続いて二塁走者まで一気に生還。遂に同点に追い付いた。甲子園は爆発しそうな大歓声に包まれた。
試合は延長戦にもつれ込んだが、甲子園は地元PLの応援一色。もはや誰もがPLの勝利を信じて疑わなかった。果たして延長12回、サヨナラ押し出しによりPLが勝利、決勝戦に進出した。真夏の暑い昼下がりから伝説が始まったのだ。だが、この試合だけではまだ伝説とはならなかっただろう。
準決勝、決勝と2日続けて起きた奇跡
翌日、決勝戦でPLは古豪・高知商業と対戦した。試合は3回表に高知商が2点を先制、その後は高知商の二年生左腕・森浩二(後の阪急他)がPL打線を完璧に抑えた。0-2で迎えた9回裏、PL最後の攻撃。この日の筆者はテレビで見ていたが、まさか2日続けての奇跡は起こらないだろう、と諦めていた。
ところが、先頭打者がセンター前ヒット。「奇跡の再来か!?」と甲子園のボルテージが上がった。森は動揺したのか、続く打者をストレートの四球。さらに送りバントで一死二、三塁となったあと、三番の木戸克彦(後の阪神)が犠飛を放って1点差。しかし二死二塁となり、あと1アウトを取れば高知商の優勝である。
続く打者は四番の西田。カウント1-1からの3球目、高めのボール球を空振りした。「なんであんなクソボールを振るねん」テレビの前で筆者が落胆する。しかし、試合後のインタビューで「わざと振りました。一度思い切って振りたかったんです」と西田は語った。
この恐るべき度胸が奇跡を生んだのだろう。1-2と追い込まれたにもかかわらず強振した打球は一塁線を破る二塁打!またもや9回裏に同点に追い付いた。
もう誰もが、2試合続けての奇跡を信じていた。二死二塁で五番の柳川明弘が放った打球はレフトを越え、二塁走者の西田が悠々ホームイン、2試合続けての逆転サヨナラ勝ちでPL初優勝となった。
西田がホームプレートを踏んだ瞬間の「甲子園の夏は終わった!青春のドラマは今、終わりました!もう戦いはありません!」という朝日放送・植草貞夫アナの言葉は今でも耳に残っている。
「逆転のPL」復活なるか?
この大会を機に「逆転のPL」と呼ばれるようになった。その後も、翌79年春の一回戦で中京商業(現・中京)、二回戦で宇都宮商業に逆転勝ち。前年夏と合わせて4試合連続逆転勝ちである。
さらに81年春決勝の印旛、84年夏準決勝の金足農業、87年春準決勝の東海大甲府、98年春の明徳義塾、99年春の横浜(あの延長17回の横浜×PLの翌年)と、ことごとく奇跡的な逆転勝利を収めてきた。
その原点が78年の2試合続けての大逆転劇であり、それも準決勝、決勝だったことが伝説にも繋がった。最近は甲子園制覇からは遠ざかっているが、ファンは「逆転のPL」の復活を願っている。