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甲子園が大正13年に完成!驚天動地・東洋一のマンモス球場

阪神電鉄が新球場建設を決意

1915年(大正4年)に始まった中等野球(現在の高校野球)の人気はとどまることを知らず、それまで使用していた豊中グラウンド(第1、2回大会)や鳴尾球場(第3~9回大会)では収容しきれなくなっていた。

そこで阪神電気鉄道の専務・三崎省三は京都大学から入社したばかりの野田誠三に命令を下した。「先ごろ完成したアメリカ大リーグのヤンキー・スタジアムに匹敵する球場を設計せよ」と。1923年(大正12年)のことである。それは阪神電鉄の社運を賭けた大事業となった。現在なら、鉄道会社1社の出資でこれだけの大球場建設は不可能だろうと言われている。

球場設計などしたことがない野田は焦った。そもそも、当時の日本には本格的な球場なんてなかったのである。頼りとなるのは三崎から渡されたニューヨークのポロ・グラウンズの図面1枚のみだった。

野田は「渡米してヤンキー・スタジアムを視察したい」と懇願したが、「そんな時間はない」と三崎は一蹴した。旅客機なんてなかった時代、当然アメリカまで船旅である。翌年夏の大会までに完成させたかった三崎が却下したのも無理はない。やむなく野田はまさしく手探りで球場設計に取り掛かった。

川の跡地に新球場を建設

ちょうどその頃、度々氾濫を起こしていた武庫川が問題となっており、その改修工事によって支流の枝川と申川が廃川となった。その川の跡地を阪神電鉄が買い取り、そこが新球場の場所に決まった。それが後の運命を決定づけることになる。

ところで、新球場建設にどれぐらいの年月がかかったのだろうか?当時の技術を考えると、相当かかったんじゃないの?と思うだろう。ところが、工事期間は僅か4ヵ月半。

その理由として、川の跡地だったためにコンクリートの材料となる砂や砂利がタップリあったことが挙げられる。材料調達の手間が省けたのだ。さらに、近くには阪神電車が走っていたので、そこから電線を引っ張ってきて灯りを点し、夜でも工事が可能だった。

何しろ現在と違い、周囲は雑木林だったので、住民から苦情が出ることもなかった。当時はブルドーザーなどなく、牛にローラーを引かせての工事だったにもかかわらず、これだけの突貫工事を実現させたのである。

遂に新球場完成!あまりの威容さに誰もが息を飲む

1924年(大正13年)8月1日、遂に新球場が完成した。新球場は「甲子園大運動場」と名付けられた。よく知られていることだが「甲子園」の由来は、完成した年が十干の最初の年である「甲(きのえ)」年、十二支でもやはり最初のねずみ年、即ち「子(ね)」年だったので、それを組み合わせて「甲子園」と名付けられた。

漢字の形といい、「コウシエン」という音の響きといい、絶妙のネーミングだ。現在ではこの辺り一帯の地名にもなっており、球場名が地名になった稀有な例である。なお「球場」ではなく「運動場」と名付けられたのは、野球のみならずサッカー、ラグビー、アメリカン・フットボールなども行える多目的スタジアムにしたためだ。

竣工式で、甲子園を初めて見た人々は、あまりの威容さに誰もが息を飲んだ。大鉄傘で覆われた内野席はコンクリート50段、外野席は土盛りだったとはいえ、収容人員は5万人。グラウンドは両翼110m、中堅119m、左右中間128mという、途方もない広さ。まさしく東洋一のマンモス球場である。

「こんな大きなスタンドでは、客数が少なく見えて盛り上がらないのではないか」と危惧されたが、三崎は「これでも将来はきっと手狭になる。その時はスタンドをグラウンドにせり出せばいい」と考えていた。事実そうなったのだから見事な先見の明である。

大会が始まり第4日目の8月16日、地元の学校が登場するとあって観衆が続々と詰めかけ、午前10時半には今後10年間は出ないだろうと思われていた「満員札止め」の看板が出された。

この大会から入場料を取るようになったが、それでもこの盛況ぶりである。また、カレー食堂と水洗トイレも人気を呼んだ。どちらも当時としては物珍しく、甲子園は時代の最先端を行く驚天動地の超ハイテク球場だったのである。

約90年間、枝川と申川の砂が甲子園を支え続けた

甲子園は2013年の8月1日で89歳を迎えた。もちろん日本に現存する最古の球場だ。その間、太平洋戦争中は空襲を受けて炎上し、1995年(平成7年)の阪神淡路大震災でもスタンドがひび割れするという被害を受けた。しかし、土台部分は耐え抜いたのである。

甲子園を支える土台は、枝川と申川の良質な砂で出来ていた。もし甲子園をこの地に建設しなければ、空襲や地震、老朽化に耐え切れずに取り壊されていたかも知れない。

約90年間、日本の野球を支え続けた甲子園。その甲子園を支え続けたのが枝川と申川の砂だったのだ。この地に甲子園が建てられたのは、野球の神様の思し召しだったのだろうか。

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