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高校野球第二の故郷、鳴尾球場。甲子園誕生以前の珍エピソード

鳴尾球場は競馬場の中にあった!?

高校野球が誕生したのは1915年(大正4年)、当時は中等野球と呼ばれていたが、その頃はまだ阪神甲子園球場はなくて、第1回大会は豊中グラウンドで行われた……、ということを以前に書いた。しかし、豊中グラウンドでは大勢の客をさばききれず、使用は第2回大会までとなった。

主催者側は第3回大会の会場を模索したが、そこで白羽の矢が立ったのが阪神沿線にあった鳴尾競馬場である。競馬場で野球なんて……、と今の感覚では考えられない発想だが、そこには明確な理由があった。

豊中グラウンドの客を運んでいた箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄宝塚本線)は田舎電車だったため大勢の乗客に対処できなかったが、阪神電気鉄道は競馬でごった返す客の扱いにも慣れていた。しかも広い競馬場なら野球場を2面とれる。2試合を同時に行えば大会期間を短縮できるし、客も分散する。

よって1917年(大正6年)の第3回大会からは、鳴尾競馬場の中に造られた鳴尾球場で行われることになった。

珍エピソード満載の鳴尾球場

こうして中等野球の会場となった鳴尾球場だが、野球では競馬用のスタンドは使えず、木造の移動式スタンドを設置した。簡単に移動できるように、高さは僅か8段(現在の甲子園のスタンドは50段)で、長さも4m程度の小さなスタンドを幾つも置いていた。

グラウンドが2面あるので、隣りのグラウンドの試合の方が面白そうだとなると客同士が協力して、えっちらおっちらスタンドを移動したという。当時は入場料も無料。なんとものどかな時代である。

また、第3回大会では敗者復活戦制度があったため、初戦で敗れた愛知一中が優勝を果たしたり、第4回大会では米騒動のために大会そのものが中止になったり、第6回大会に出場した豊國中の小方二十世という投手は実は法政大学生だったりと、鳴尾球場では珍エピソードが目白押しだった。

高まる中等野球人気に対応しきれなくなった鳴尾球場

しかし、沸騰する中等野球人気に、木造スタンドで5千人程度しか収容できない鳴尾球場はもはやパンク状態となった。観客が溢れてグラウンドになだれ込むこともあったという。鳴尾球場では1923年(大正12年)の第9回大会まで開催されたが、もはやそれが限界だった。

そして、阪神電鉄内では社運を賭けた一大事業を決断した。「アメリカ大リーグにも負けない、東洋一の大球場を造ろう」と。それが甲子園球場であることは言うまでもない。そのことについては、別項で書くことにしよう。

現在の鳴尾球場跡

現在、阪神タイガースの二軍本拠地である阪神鳴尾浜球場と、当時の鳴尾球場は全く関係がないし、距離も離れている。鳴尾球場があったのは、阪神電鉄の甲子園駅から甲子園筋を南へ約1.5km行ったところ、現在は浜甲子園団地となっている。

その浜甲子園団地の南側に浜甲子園運動公園があり、そこには鳴尾球場の記念碑が建っている。甲子園球場に行くことがあれば、散歩がてらに鳴尾球場跡を散策してみるといい。高校野球の黎明期を堪能できるだろう。

浜甲子園運動公園にある、鳴尾球場の記念碑。当時の記録なども残されている

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