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仕事で忙しい父親の存在を子供の記憶から消えないようにするには?

仕事で忙しいあなた!子供が寝ている間に出勤して、寝てしまってから帰宅なんてことも少なくないでしょう。おまけに土日は接待ゴルフだったりすると、小さい子供はパパの顔を忘れてしまうかもしれません。

久し振りに会った我が子に「このおじさんだぁれ?」なんて言われるような悲しいことになる前に、対策を練っておきましょう。「対策と言ってもどうしたら?」と現実問題難しい難題がいっぱいでしょう。

これは、私の父がしていた事です。私は忙しい父を遠くに感じたことが無かったので、私にとってはとても効果的だったのです。参考までに紹介しますね。

忙しい父が娘に課した厳しいルール

私の父は、それは忙しい人で、新婚当初の母は結構寂しい思いをしたそうです。一緒に夕飯を食べたことはほとんど無かったのだそうです。ところが、私の父は意外にマメな人で、記念日だけは忘れない人だったそうです。母の誕生日、結婚記念日、後は時間ができたら仕事の後に母を呼び出し、一緒に映画を観に行ったり、コンサートに行ったりしていた記憶があります。

もちろん物心ついた頃の記憶でしたが、子供が中間試験の最中であろうと受験を控えていようと関係なかったようです。祖父母が私達の面倒を見ていてくれていましたが、「受験失敗したら働きなさい。義務教育は終わった。自分の人生は自分で決めなさい!」そんな感じで言われると余計不安になって働きたくなくて一生懸命勉強したものです。

さて、そんな自由気ままな我が家の頑固親父が決めたルールはこうです。「朝は、家族みんなで食事を摂ること」です。例外はありません。たとえ父が出張で7:30発の飛行機に乗るために自宅を6時に出る時でさえそのルールは変わりません。5時から父と一緒に食事を普通に摂るのです。そして、家族みんなで父に玄関まで「いってらっしゃ~い!」とお見送りです。

平日、父は7時に自宅を出るので、幼稚園の時も6時に起こされ一緒に朝食を摂っていました。休日でも例外ではありません。母は、「お父さんはお仕事に行くんだからお見送りしてあげましょう。お父さんも寂しいのよ。眠かったらお父さんが出かけてから寝ましょうね」そう言って子供だった私達を説得しました。

「おとうさん、おしごとがんばってね~♪はやくかえってきてね~♪」と可愛くお見送りです。こんな生活を当たり前だと思って暮らしてきました。早起きは辛くても、朝食は結構楽しい時間だったように思います。お父さんは無口でしたが、いつも笑っていたように思います。

きつかったのは門限ですね。私は超箱入り娘で、恥ずかしいくらいです。高校の時は、門限19時。部活が終われば自転車で速攻帰っていたのを覚えています。大学になっても門限は21時です。お祭りも花火が終わるのが20時半です。そこからタクシーで速攻帰ってました。

飲み会だって私に合わせて夕方18時から開始です。2次会なんて行ったことがありませんでした。社会人になっても変わりません。おかげで私は有名人です。

でも、父はルールだけを決めた暴君ではありませんでした。私の子供の頃の写真は、小学校を卒業するまでで厚さ10cmのB4サイズの大きなアルバムが15冊もあります。実にいろんな所に遊びに連れて行ってくれているのです。おまけにただ写真が貼ってあるだけでなく、編集し、コメントまで入れてあるのです。

大人になっても、写真館で撮った成人式の写真よりも、父のスナップ写真の方が可愛く撮れているのです。如何に父が私達を可愛がり、父に向ける笑顔が自然だったか分かるというものです。運動会も学芸会もシャッターチャンスはプロ級です。そんな父ですから、遅れることはあっても、父親参観日や学芸会・運動会、ピアノの発表会には必ず来てくれました。写真が証明しています。

大人になって父に対して思うこと

私が3歳くらいの頃は週休2日制ではなく、父のお休みは日曜だけだったはずです。父は30歳くらいで、土日に「3歳児相手にきつく無かったのだろうか?」と社会人になって土日のお休みにつくづく思ったものです。

土曜日に早く帰ってきた日の夕方には、公園に連れて行ってくれました。三輪車やおもちゃの車に乗ったり、遊具で遊んでいる、カメラに向かって手を振っている私の写真がたくさんあります。

日曜日にはぶどう狩りやイチゴ狩り、梨狩り、アスレチック、バーベキュー、山登り等々、本当にアウトドア中心に自然の中で遊んでいる写真もたくさんあるのです。これだけ遊びに連れていくのにどれだけの労力が要ったか、今となっては感謝の一言です。その頃の父は仕事で忙しく、子供とこんなに遊ぶ時間をどうやって作っていたのか不思議でなりません。

父は学者で、書籍もたくさん執筆し、講演や研究論文も多く残している、その道では「神様」と呼ばれているような人だったそうです。仕事を家に持ち帰り、いつも原稿を書いている姿を私も子供心に覚えています。子供と遊んだ後、夜寝ないで仕事をしていたのだと今なら分かります。

大人になると、結婚式等に招待された帰りに新幹線で21時過ぎに帰って来る時は駅まで必ず迎えに来てくれました。「お父さんをアッシーに使えるのはお母さんとお前だけだぞ!」なんて笑って言っていたのも覚えています。運転手がつく人なのですから当然でしょう。

そんな父でも自宅にいたら仕事の途中でも迎えに来てくれます。「忙しいからいいよ」と断っても、「気になるから行った方が仕事は捗る」と言うのです。すごいパワーです。

やろうと思えば何でもできる!違いは、やる気があるかないかです!

私の父は、公務員の中では、どちらかと言うとエリートの部類に入っている人だとは何となく思っていました。でも、業界トップの有名人で「神様」とあがめられるまでの人だと知ったのは、父のお葬式の時でした。ものすごいお葬式で500人以上の参列者が来ました。

「『神様』なのですから、私なんて一生会えないと思っていたけど、お亡くなりになったら会ってお話ができる」というビックリするようなことを泣きながら言っている人までいたことに本当に驚きました。

私はそんなすごい人の娘だったのです。尊敬はしていましたが、家では普通の優しいお父さんだったのです。でも、良く叱られました。門限のことで親子喧嘩もしょっちゅうでした。

仕事にはとても厳しい人だったそうですが、フォローが優しい人だったそうです。能力のある人は、どんなに厳しくても父に感謝し、お世話になったという人々や友人達がたくさんいます。現在7回忌になろうかというのに、未だにお盆と命日にはお参りに来てくれるのです。

父の友人達は独りになった母を心配して良く様子を見にも来てくれます。ありがたいことです。すごい人望だと思います。戴いたお線香がまだ山のように残っているそうです。

優しい父だとは思っていましたが、こんなすごい人だったなんて驚きです。母は「神様の女房」なのです。だから、父が亡くなっても大切にされています。娘ながらすごいことだと思っています。

こんなすごい父が、子供の頃の娘に、寂しい思いをさせた事が無いほど思いっきり遊んでくれていたなんて、私はなんて幸せものなのでしょう。感動です。普通はできることではありませんよね。

だから、「どんなに忙しくても、やろうと思えば時間は作れる」と私は思っています。工夫をすれば、短い時間でも心に強烈に残る合理的な方法で、子供に寂しい思いをさせることは無いのです。私はそういう父を誇りに思います。

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