美濃のマムシ斎藤道三。僧だったり油売ったりは先代?
斎藤道三(利政)は下剋上の典型の人として知られていますが、その偉業は親子二代に渡って成し遂げたという説が定説となってきています。
定説だった説
妙覚寺の僧から油売りとなった松波庄五郎は銭の穴を通して油を注ぎ、こぼしたらお代は取らないよという一発芸をしていました。そんな集中力が要る芸当をしていた彼は武士への転身を決意。知り合いのつてで長井長広の家臣となります。そこで西村正利と改名。
その後、土岐頼芸の家督相続に貢献して信頼を得た正利は世話になった長井長広を殺害。そして長井規秀と改名。その後、美濃守護代である斎藤利良が病没すると斎藤氏を継いで斎藤利政と改名。さらに頼芸を追い出して美濃を手に入れた、というのが道三の国取りと言われるお話です。
親父の名は新左衛門
ところがどっこい六角義賢の書状などによると、どうやら長井を名乗るあたりまでは親父さんの新左衛門のようです。そんなわけで改名しまくりな上に途中まで親父さんという極めてややこしいことになっています。
娘の旦那はうつけもの
道三の娘さん、濃姫(帰蝶)は織田信長に嫁いでいました。道三は信長に面を見せろと要求し、二人は正徳寺にて顔を合わせることになります。かねてより道三は人々が口々に信長は大たわけだと言うのを聴いていて、「そんなにたわけと言われるってことは逆にたわけではないかもな」と言って信長がたわけか否か確かめようとしたのです。
先に着いた道三は家臣八百人に立派な格好をさせ寺の前に並べ、己は隠れて信長を覗き見。そこへ信長がお供とやって来ます。ちゃせん髷に袖なし湯帷子、刀は縄で巻いて、腰には火打袋やらひょうたんやらを七,八つ下げていて猿使いの如く、それに虎と豹の皮の半袴というおしゃれなのか何なのかよく分からない格好です。
槍や弓、鉄砲を持たせた七、八百人ほどのお供を引き連れた信長は寺に入るや屏風を廻らし、髪を結い、いつ用意したのだか誰も知らない長袴をはき、これまたいつ用意したのだか誰も知らない刀を腰に差して道三のもとへ。周りは「うつけのふりこいていたのか」と見直したとのこと。
「急げ」と促されるも信長は縁の柱にもたれたままで、道三が屏風を推しのけて出てきても無視。「この方が道三殿にござる」と紹介されてやっとこさ信長は「であるか」と答えて敷居の内へ入ります。挨拶をした後、湯漬けを食べたり酒を飲んだり何だリしてお開きに。
道三は信長を見送りますが、このとき道三方の持つ槍は短く信長方の槍は長かったのを見て興がさめ、有無を言わず帰途につきます。帰る途中、家臣に「あいつやっぱりうつけですよね」と言われた道三は「ならば無念だ。俺の子供はそのたわけの門に馬を繋ぐことになるだろうよ」と言ったとのこと。
息子よ
道三は長男の義龍を低能だと思っていたようで、弟二人、特に三男を可愛がっていたようです。そこで義龍は病と偽って弟二人を呼び出して斬殺、そのことを知った道三と親子で争うことに。戦の最中、長井忠左衛門が道三を生け捕りにしようとしている横から小真木源太なる武者が走ってきて道三に組み付き首を掻き切ってしまいます。
横取りされてしまった忠左衛門は道三の鼻を削いで退きます。道三の首を見た義龍は「これは己の身から出た罪だ」と言ったとのこと。この戦で道三は義龍が意外と有能だったことに気付き、己の見る目が無かったと後悔したという話もあります。
道三の遺言
息子との戦に臨むにあたり、道三は信長に対し美濃を譲るという旨の遺言状をしたためていたようです。戦を長引かせなかったのも援軍にくる信長の軍を思いやってのことだったとか。ちなみに義龍の代ではなく、その子、龍興になって美濃は信長に奪われています。