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粘りに粘ったお坊さん。本願寺顕如と石山合戦

石山本願寺と織田信長との対立は十年にも及ぶ長い争いです。敵対するに至った理由として、信長が石山本願寺の立地に目を付け(今の大坂城のある場所)、そこどいてと要求するも法主の顕如が拒否したためとか言われていますが諸説あります。

石山合戦の発端

信長は敵対する三好三人衆の野田城と福島城を攻めていました。顕如はその城が落ちれば対岸の己らも危ういと察して挙兵。そこに浅井朝倉勢が森可成の守る近江宇佐山城を攻撃して可成は討ち死にしてしまいます。しかし可成の家臣たちの奮戦によって城は落ちず、浅井朝倉勢は諦めて京の方へ進軍。

それを知った信長は野田、福島の陣を引き払って浅井朝倉勢のもとへ。それを見た浅井朝倉はちょっとまずいと思ったのか比叡山に逃げ込みます。信長は「味方しないと焼き討ちするよ」と延暦寺に通告しますが無視されます。信長は比叡山を囲む作戦へ移りますが、その隙にあちこちで反対勢力が挙兵し始めます。

長島の一揆衆によって信長の弟信興が自刃に追い込まれるなど、織田方は苦戦を強いられます。信長は朝廷と将軍を通じて和議を提案、浅井朝倉も受け入れて一時休戦となります。その後1573年には信長によって朝倉と浅井は滅亡に追い込まれます。

再び挙兵

浅井朝倉を滅ぼした後、信長は前波吉継を越前守護代に任じていましたが振る舞いが横暴だったようで一揆衆に殺されてしまいます。本願寺も再び挙兵しますが、長島や越前の一揆衆が信長によって制圧された後再び和議を結びます。

またしても挙兵

三度挙兵した本願寺に対し、信長は荒木村重、細川藤孝、明智光秀、原田(塙)直政らに本願寺への攻撃を命令。彼等の築いた砦によって囲まれた本願寺側は桜岸や木津を通路にしていたため、信長は木津の攻略を命じます。三好康長らを先陣に木津を攻めた織田軍ですが、桜岸から一万余りという本願寺側の兵が現れ鉄砲をぶっ放します。

この戦いで塙直政は討ち死に。一方、京都にいた信長も不利の知らせを受けて自ら出馬。急な陣触れに兵はなかなか集まらないが猶予もないので三千の兵で一万五千に攻めかかる信長。佐久間信盛らを先手に、信長も混ざって戦場を巡り指揮を執ります。この時信長は脚を撃たれますが、致命傷には至らずに済んだとのこと。

雨の如く鉄砲を浴びせる本願寺側。それを防ぎつつ、信長率いる援軍は天王寺砦に籠城していた自軍と合流します。その後家臣の反対を振り切って信長はさらに一戦交え、本願寺側は敗走。その後は付城を築き海上の警固も置いて信長は帰ります。塙直政の代わりには佐久間信盛が入れられました。

鉄の船

本願寺は毛利輝元に助けを求めます。海路から兵糧を持ってきた毛利方は織田の船に焙烙玉や火矢を投げ込んで燃やし、次々と沈めていきます。海上警固に置かれていた真鍋七五三兵衛などが討ち死に。毛利方は兵糧を運びこむことに成功します。

そこで信長は九鬼義隆にでっかい船を造るよう命令。完成した船は鉄の板を張り付けたもので、毛利方の放火作戦は通用しなくなります。織田方は大砲を撃って毛利方の船を沈め、海路を封鎖。鉄船は物珍しく、見物人も集まったとか。

その後、織田で荒木村重が謀反を起こしててんやわんやな時に毛利方の船六百あまりが再び出撃。最初は優位だった毛利方も、九鬼水軍の鉄船によって追い返されてしまいます。

孤立してしまった本願寺は朝廷を介して信長と和睦を結ぶこととなり、石山合戦はようやく終わります。顕如は石山本願寺を退去しますが、本願寺に届く兵糧を頼っていた雑賀や淡路の門徒は顕如の息子、教如と共に抵抗。しかしそれも続かず、教如たちも去ることとなります。

燃える本願寺

信長に受け渡された直後、石山本願寺は突如発火して三日三晩燃え続け全て焼失。松明の火が燃え移ったとのことですが、教如が放火したという説もあります。

追放だよホトトギス

本願寺攻めを任されていた佐久間信盛に信長さんから折檻状が渡されます。「お前と息子は五年間何をやっていたの?」から始まり三方ヶ原で平手汎秀を見殺しにしたことなどを並べて叱責。最後は「どっかの敵を討ち取って恥をそそぐか討ち死に、「頭剃って高野山」を実行しないと許さないよと締めくくられます。これはどっちか選べってことなのか。

信長の父、信秀の代から臣従してきた信盛は嫡男信栄と高野山へ。しかし何故か高野山も駄目と言われ、熊野の奥地まで落ちたとのこと。息子さんは後に許されますが、ちょっと酷な話です。

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