織田信長に良くも悪くも出会うより前の明智光秀の話
本能寺の変で時の人となった明智光秀。そんな彼が織田信長に臣従するまでの経緯はあまりはっきりしていません。
『明智軍記』には光秀の前半生も記されていますが、如何せん軍記物な上に書かれた時期はおそらく江戸元禄、著者も不明なため真偽は不明、というか信用していいものではないとも言われます。
いろいろ不明
明智軍記によると光秀は美濃の土岐明智家の生まれとなっています。通説では生まれは1528年ですが諸説あります。ちなみに信長が1534年生まれなので光秀のほうが年上です。
美濃を追われる
斎藤道三が息子の義龍に討たれたことで道三に味方していた明智家も攻められ、光秀は美濃を追われることとなります。彷徨った末に光秀は越前の朝倉義景のもとへ。
鉄砲の逸話
光秀は鉄砲の腕前を見たいと義景に言われると、的を用意して百発撃ち込みます。すると68発が中心を射抜き、他32発も的に当たっていたとのこと。まさに百発百中の腕に義景も感服して、光秀に百人を鉄砲隊として預けたという逸話があります。
義景から義昭へ
足利義輝が三好三人衆や松永によって死に追いやられると、細川藤孝(幽斎)らは義輝の弟さんであり幽閉されていた義昭を引っ張り出して越前の義景を頼ります。義昭は上洛したいから手伝ってと義景に頼みますが、息子が急死したこともあってか義景は如何せんやる気なし。
信長のもとへ
「義景はもう駄目だ」と、義昭はオラオラ系な信長を頼ることにしました。光秀も義昭に従い朝倉家を離れます。こうして光秀は信長と出会うことになるのです。
奥さんとの逸話その壱
光秀には奥さんの熙子さんを娶る際の逸話があります。熙子さんは光秀との婚姻前、疱瘡(ほうそう)に罹ってしまったため肌にあばたができてしまいます。そこで両親は瓜二つの妹さんのほうを光秀のお嫁に出したのです。
しかし光秀は気付き、妹は事の仔細を白状。光秀は「約束通り、姉の方をお嫁にもらいます」という手紙と共に妹さんを返却、無事に熙子さんと結ばれたのです。
奥さんとの逸話その弐
放浪の身であった光秀は貧しい暮らしをしていました。そんなある日、連歌の会の仲間たちを家に招くことになったのですが何分お金が無くてたいした用意ができません。そんな旦那のために熙子は己の髪を売り、そのお金で酒や肴を用意。光秀の矜持は保たれます。
そんな奥さんのためにも出世しようと光秀は決意したとか。光秀は側室を一人も持たなかったと言われます。子供たちは品のある子ばかりだったそうで、その中には細川忠興に嫁いだ玉子(ガラシャ)さんもいます。