老獪と純情の間で、苦笑とともに悠然と盃を傾けるオヤジたれ
筆者は団塊の世代の端くれで、しがない一匹のじじいとしての感懐を綴っています。この年になってこの国の政界や財界を俯瞰すると、人生の悲喜劇にふと苦笑いが湧いてきます。子供ではない「大人の男のウェブマガジン」ならば、お手軽で便利なハウツウものでない、味のある小論にも目を向けてみる余裕がほしいものです。
気持ちに風情を持たせる
田舎の和尚さんみたいな、超然たるエセ悟りの弁を吐くのは、私には似合いません。安手のニヒリズムは、一見格好いいけれども「野狐禅」というものです。
とはいえ、少しは気持ちに「風情」が出てきてもいい年頃ではあります。今さら自分の中に英雄を育てようとは思いませんが、腹の中に一匹のサムライがいると感じています。
生と死の美学
サムライは抽象性に富んだ人格です。「経世の志」という妖怪のようなものを、呑んでいます。日本史の中で、多少、奇形という趣ではありますが、人間の芸術品という完成度を見せてくれています。生と死という美学を、その立ち居振る舞いに、静かに漂わすことのできる存在でした。
現代における「刀」は「言葉」である
イチローを見てください。彼は一匹のサムライだと言えましょう。「孤」を守っています。ちかごろは「個」ばかりを主張するメダカ人間がゴマンといるようですが、そういう者はイチローの爪の垢を煎じて、朝・昼・晩に飲めと言いたいですね。
刀は武士の命だと言われています。現代における刀とは、さしずめ「言葉」であり「知識」でしょう。刀も使い方ひとつで人斬り包丁になるように、現代社会の言葉は、魂を振り捨てた鉄の分銅に似ています。極めて危険です。
正義が見えなくなった時代
若者だけが薄ペラだとは言いません。年は取っても、四十面を提げていても、思想がない、志操もない、あるのは歯槽膿漏だけだなんて人もいます。社会には信仰もない、新興宗教のむやみな侵攻だけがある、そんな気がいたします。思い上がった人類が自然を破壊し、神々を抹殺していきます。いや、中東を見れば「神々が」人間を虐殺へと誘導しているかのようです。
近代合理主義というのはとうに破綻していると指摘されながら、その次の正義がどこにも見えぬままに、人々は集団として発狂する欲求からついに逃れられない様相です。国家も個人も利権を追って、武力・金力による圧力を金科玉条にして当然顔をしています。
己の愛刀を撫する時間
熟年という人生の季節は、行く手に黄昏を望み、背中に青い狂気を回顧しつつ、己の愛刀を哀悼の情とともに、したたかに撫する時間なのです。義理とか人情などと言えば、ヤクザのようだと思われるかもしれませんが、人情が紙のように薄れ、利害打算が唯一の価値となってしまった世の中に、真のサムライの吸う空気はもはやない――とは思いたくありません。
自分を再発見しよう
己の愛刀、すなわち自分の言葉に、千切れ千切れの想いを載せて、もう一遍世界を、そして自分を見詰め直してみる、それが「撫する」ということです。
多忙な毎日を送る中で、しばし立ち止まって自分の影を凝視していれば、その影から何かがゆっくりと立ち上がってくるに違いありません。古い日記でもいい、古いアルバムでもいい、昔交換した文通の手紙でもいい、抽斗から取り出して目を通してみてください。
純真な過去の自分に出会い、今の自分を立て直す機会が得られるかもしれません。魂は何度でもリフレッシュできるものなのです。老獪さだけが、人生の力ではありませんよ。
死ぬまでに何をするか
日本の男たちに一言申し上げたい。仕事の隙間で自分自身を磨滅させてはいませんか?個性を干からびさせ眠らせてはいませんか?
老獪と純情の間で、オヤジたちは苦笑と微笑を繰り返しながら、ゆっくりと盃を傾けるべきなのです。そして自分の歩んできた道を自分なりに評価し、これから死ぬまでに何を成し遂げて生きていけばいいのか、心豊かに噛み締めてみようではありませんか。80歳までには、まだ間がありますよ。