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本音と建前を駆使して本物の大人になるための知恵と知識

「本音と建前」というと、建前は嘘で本音が本当、だと受け止める人が多いことでしょう。でもちょっと待ってください。それはものごとのほんの一面であって、「本音と建前」の感覚はもっと真剣に掘り下げて考えておくべきものではないでしょうか。人心にはなぜ「本音と建前」の区別があるのか、そこから発想してみましょう。

本音と建前、どっちが本当かな

例を挙げて、「建前」を擁護してみましょう。嫁ぐ娘に「二度と帰ってきてはいけないよ」と言い聞かせる建前派の親と、「何かあったらいつでも帰ってきていいよ」と優しく告げる本音派の親。そのどちらが本当に娘の幸せを願っているのか、よく考えてみましょう。

会社は社会に貢献するからこそ利潤を得られ、社員は人のために働くからこそ生き甲斐が生まれる、という建前。それに対して、会社はとどまるところを知らぬ利潤追求のための組織だから、それ以外は問題外だという本音。どちらが会社として伸びていけるでしょう。

学校教員は、児童生徒を立派に教育するという使命感で仕事に励んでいるという建前。教員も労働者なので賃金のために時間を売っているだけ、という本音。どちらの動機で教員になる人が多いでしょう。

夫を心から愛しているからいつまでも傍にいて奉仕したい、という妻の建前。夫にセックスをさせてその代償に給料を頂戴する有利な就職が結婚、という女の本音。さあどっちの女性を男たちは喜んで妻に迎えるでしょう。

人間の真の動機はどこにあるか

何事にも、両面性があります。その両面があって一つの行為となります。一面だけの行為などありはしません。人間の活動の「真の動機」は、実のところ「神と悪魔」が半分ずつ分け持っているのです。ところが現代の人は、特に若い世代の人たちは、「本音が真実で、建前が嘘」であると、理由もなくそう思い込み過ぎています。

でも冷静に思慮すれば、利己と利他があってこその人間です。利己が真実で利他が偽りであると、誰が決めましたか。なぜか現代人は、人はエゴのかたまりであるという前提を正論だと見なしがちで、善なるものを心がける人を指して「自分を偽っている」「体裁を繕っている」「社会を欺こうとしている」と批判したがる傾向があるようです。

でも自分自身を振り返ってみても、男が仕事をする心境は、ただニンジンが欲しくて走り続けている馬と同じではないでしょう。自分のいる会社が、金儲けのみで成り立っているガサツな会社だとは思っていないでしょう。

それは世の中には消費者をコケにし、汚い金を操って富を築いている企業も少なくないことでしょう。でもそうした企業だけが真実の企業で、社会奉仕理念を掲げた企業は偽の企業だなんて、誰も思ってはいないはずです。

建前も本音もどちらも自分

自分自身の中の本音と建前を、一度徹底的に洗い出してみるといいのです。いろいろな本音があるでしょうが、本音だけを真実と見なせば、多分、背筋が凍るでしょう。背筋を凍らせたまま、毎日通勤するサラリーマンたちの額には、地獄の色が浮かび出てくるに違いありません。

実につまらない人生が前方に広がるだけです。夢とか希望とかは色褪せ、妻子に向かって父として何を語ればいいのか、目の前が真っ暗になるでしょう。

「建前」は、決して「嘘」ではありません。信じるに足るものです。ただし、立派な建前だけに寄りかかり、自己を体裁よく正当化してすっかり安心してしまうのも考えものです。

建前も本音も、どちらも自分なのです。陰陽思想的に言えば、建前が陽で、本音が陰です。陰が根っこで、陽が枝葉です。根っこも枝葉も「木」という自分です。根っこだけが本当の自分だなどと信じ込んでいたら、綺麗な花は永遠に咲かせられませんし、その逆も言えます。

本物の大人とは何ぞや

建前と本音の「拮抗」をでなく、両者の「一致」をこそあるべき姿であると提唱いたします。建前の腐ってしまった社会というのは、泥沼です。倫理道徳というのは一種の建前ですから、これが腐り果てていたら官僚も政治家も財界も文化人も、国土全体がドロドロになっていくことでしょう。

やはり何と言っても、政治家は国を憂え、事業家は産業に貢献し、教育者は次世代を育成し、親父は家を守り、母は子を愛し、庶民は自らを正しく律する。そういう当たり前の建前を否定してはなりません。

今の社会を見ると、どうも「偽の本音」が「建前のふり」をしてのさばっているようです。その逆に「偽の建前」が「本音のふり」をして流通しているようにも感じられて、このままではこの国の将来はどうなることやら心配されることしきりです。本物の大人とは、「本物の建前」と「本物の本音」とを豊かに心に蓄えた男である、と定義したいと思います。