熟年者は右脳と遊ぶ知恵者であり、中庸の大切さを若者に示せ
加齢とともに、人間の知恵の質も変わっていくものです。20代の知恵と、40代以降の大人の知恵とでは、どこか本質的な違いがあってしかるべきです。では、何がどう違っているのでしょうか。
知恵熱というもの
「学のある馬鹿にオヤジは困り果て」知恵熱という言葉があります。成長過程で左脳が活性化する人生の一時期には、熱にうかれたように理屈の勝った思索にはまり込みやすいのが、普通の人間というものです。
賢明に世俗的であれ
知恵者は、こう言っています。
「賢明に世俗的でありなさい。そして、世俗的に賢明であり過ぎてはいけません」
と。名言です。誰もがぜひ、自戒しましょう。
左脳は理論脳、右脳は感情脳
科学的に「分かる」ということと、本当に分かるということとの、微妙な違いに思いをいたしましょう。左脳の納得は、必ずしも右脳の納得とはつながっていないようです。
万有引力とは何でしょう
万有引力というものがあります。現代物理学はそれを前提として成立しています。ところが、その引力とは何であるかということになると、全く分析もできないし証明もできないと言います。科学でできることと言えば、ただ引力の強さをさまざまな条件下で測定することだけです。
時間の流れは計れないもの
時間も同じです。時間とは何か、宇宙とは何か、なんて問いは科学では扱えない問いです。哲学でさえ、ほとんどお手上げ状態なのです。
「馬鹿を言え。時間なんて時計で測定できる簡単なものじゃないか」と言うなかれ、です。時計は地球の自転の時間を測定し、24等分して1時間と決めているだけで、時間の流れの速度を計ることは絶対に不可能です。時の流れとは、何が流れているのかさえ、全く分かっていません。
命って何なのだろう
実は、心だって、命だって、それと同じことです。身体を細分化して、各種臓器の機能を解析すれば、いろいろな病気治療の役には立つでしょう。
例えば、人が怒ったりすると、ある種のホルモンが多く分泌される、といったことは分かります。しかしそれは、そのホルモンが分泌されたが故に、その人が怒ったのだという証明ではないし、怒りというものが何であるかがそれで分かるものでもありません。
物と心は2つで1つ
唯物論と唯心論は、その両方があって初めて一つの哲学になるものです。片方だけでは、あまりにも底の浅い、思いつき思想になってしまうもののようです。
二極構造の中庸を取る
中庸という考え方は、文明の発祥とともにあったと言われています。大小・明暗・長短・賢愚・遠近・善悪・正邪――何ごとも二極構造を持っています。相反する概念の、その中庸を取るということが、命のバランスというものであります。
右脳で考える
例えば、左脳Aは「個人あっての国家だ」と言ったとします。すると左脳Bがすかさず「国家あっての個人だ」と言います。それを聞いた右脳は、ニヤリと微笑んで言うでしょう。「その中間に真理があるのさ」と。
宗教観は右脳でつかむもの
万有引力を知っていても知らずにいても、地球は引力によって運動し続けることでしょう。知恵があってもなくても、おそらく体重には影響がありません。「右脳で分かる」ということを知らない人は、多分、宗教観というものには出会えないかもしれません。
熟年者の知恵
知恵熱にうかれている若い人の理論には、どこかしら厚みが乏しいことが多く見られます。それを埋められるのは、右脳で考えるという熟年者の知恵なのかもしれません。