長年連れ添った妻。失う前に気付いておきたい「大切にするとは何か」
そんなとき、妻から突然に「あたしのこと大切だと思ってる?」とか問われると、思ってるに決まってンだろ、と答えはするも、どうもストンと腹に落ちない―――。
ある意味、心は正直にできている。自分の中で「好きなのか、どうでもいいのか」と考えてしまうなら、そこに倦怠期もヘチマもない。長年、一緒に暮らしてきた情や柵から、なんとなく「そういうものだ」と過ごしてきたのなら、男が感じる不安に嘘はない。
そして女性は本能的に「嘘を見抜く」。男がいくら否定しても「そうに決まってる」と意固地になるのは、女性の中の本能が「嘘」だとシグナルを発するから。男性諸君は身に沁みているだろうが、母親でも彼女でも、女性というものは太古からそうなっている。
そして仲睦まじく暮らす夫婦にもトラブルが発生するように、ちゃんと仲睦まじくなくてもトラブルは発生する。そういうとき、薄皮一枚で繋がったような「夫婦の絆」ならば脆くも破れ去ってしまう。夫婦で協力して乗り越える、という行動作業に支障をきたすからだ。
「嫌いになった」なら離婚は問題ない。ユダヤの諺にもあるけど「結婚には歩け、離婚には走れ」だ。ダメになった夫婦は離婚した方が世の中のためである。でも「好きかどうかわからない」で不安定になり、本当ならなんでもないトラブルで別れてしまえばダメージは残る。離婚は「した後」も大変だ。子供がいたりすれば問題もこじれる。
では、どうして「好きで一緒になった相手」なのにそうなるのか。
具体的に言うと「なぜ、大切に思わなくなるのか」が問題だとわかる。「元から大切に思っていなかった」ならば結婚までしていないはずだ。交際が始まったとき、結婚を決めたときなどは、どんなカップルでも「世界で一番幸せ」みたいな顔をしていたはずだ。
それがだんだんと薄れ、浅くなり、消えてしまう。そしてそれは「飽きた」とかじゃない。また、それが「嘘」でもないなら、つまり「大切かどうかわからない」は本当に「大切じゃなくなってきている」ということだ。
ほとんどの場合、結婚するときはタイミング。出会いなんか偶然の産物だ。そして付け加えるなら、結婚なんて珍しくもない。だから放っておくと「どーでもよくなる」わけだ。
100円ライターがあるとする。入手方法はおよそコンビニで買う。人からもらう。オマケでもらう。これを「大切か」と問われたら、べつに、となる。でも、これを1年間、本気で大切にすればどうなるか。
毎日毎日、寝る前には話しかける。シールが剥がれてきたら貼り直す。色艶を自慢する。特別なケースを用意して入れる。初めて火をつけた「記念日」にはささやかながらお祝いをする。これを1年続けているとして、あなたの友人がタバコを吸う際、ごめん、ちょっと貸して、とは言い難い。あなた自身も「ダメだ、貸せない」と断るかもしれない。それからまた、5年10年が過ぎればどうか。
もう、あなたはその100円ライターが大事で仕方がない。理由は言うまでもない。いままで10年も大切にしてきたからだ。つまり「大切かどうか」は「大切にしてきたかどうか」を自分に問うているということ。だから相手にも伝わってしまうし、言葉だけの「大切だ」も通じない。
そしてもし、その100円ライターに自我が芽生え、言語を解せばなんと言うか。きっと100円ライターも「あなた以外の人は考えられない」くらいは言うだろう。すると、あなたはもっと愛おしくなる。もっと大切にする。
これが何年も何年も、夫婦の間で連鎖反応を起こす。年老いたラブラブ夫婦は伊達じゃない。現実の「大切にした」が積み上がっている。
結婚なんて「気に入ったライターを買った」くらいの軽い気持ちでも可能だ。しかし、それを本物に変えていくのは当人らの「実行動」のみだ。
いま、胸に手を当てて「別れたくない」と思うならば、仕事が終わった帰り途、花でもケーキでも買って帰ることだ。「なによ」と言われても関係ない。「大切にする」という意志と行為のみが肝要、それに「女性を喜ばせる」ことは難しくもない。男なら馬鹿でもやれるよう、ちゃんと簡単になっている。