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偽善者として生きて行くと幸せになれる?幸せな偽善者のススメ

自分の事を偽善者と思っている方、人から偽善者だと言われた方。本当は良い人になりたいのに、どこかが自分都合であったり、自分本位であったり、結局偽善だと思わざるを得ない事ってあります。しかし、偽善は善の入り口です。偽善者という価値観の幸せをオススメします。

長い人生を生きていく中で、自分は悪い人間になりたいと思っている人はほとんどいないと思います。誰だってよりよく生きたいですよね。しかし、偽善者とは思われたく無いという人もいます。

偽善者とは善人の面を被っている人であると定義すると確かに目に見えて悪い人であると言うよりも何だか印象が悪い様ですが、果たして偽善者っていうのはよろしく無い事なのでしょうか?

偽善者の行動は善行動?

ひとことで偽善者と言ってしまえばそれだけですが、しかし、偽善者と言われる人を見ていると、行動自体は実は善行動をしているのです。例えば自分に置き換えて想像してみて下さい。自分は決して善人とは思えないとしましょう。しかし、今日から偽善者として生きてみようと決断をした時、果たしてどんな行動をするでしょうか?

朝起きて玄関の掃除をしていて、最初は自分の家の前だけで掃除をしていたのが、となりの人の家の前も掃除をしておいてあげようと思ったとします。

それが真心から来ている善行動であれば偽善ではありませんよね。しかし、相手に認められたいからとか、良い人に思われたいからという理由で掃除をした場合は若干偽善者の行為です。しかし、事実としてお隣さんの家の前が綺麗になった訳ですから、あなたが取った行動自体は善行動となりますよね。

電車の中で席を譲る行為も、本心から相手のためを思ってした訳で無く、周りの人によく思われたいから取った行動だったら。結局それは完全な善では無いかも知れません。しかし、同じ様に席を譲られた人は助かる訳です。

結果的にあなたの行動は人に喜んでもらえたという訳です。ですので、例えそれが偽善的な行動であったとしても、他の人に喜んでもらえる行動は善行動と呼べるものなのです。

偽善者にしか出来ない事

今度は、仮にあなたは本当にいい人であったとします。しかし、いい人だからといって、先ほどの様な行動が取れるかどうかは実は別なのです。

電車で席を譲れるかどうか、心の中では譲ってあげたいと思っても、いざ行動に移そうとすると躊躇してしまったりします。これは、自分の体面があるからです。いい人に思われる事が恥ずかしいとか、もしくは偽善者だと思われるのが恥ずかしいとか、照れてしまうとか。

どちらにしても、自分が周りからどう思われているのかというのは、例えいい人であっても関係がありません。その行動自体を照れ無く出来るのかだけの事なのです。

逆に、偽善者の場合は如何でしょうか?何の照れも、体面も無くそういった事が出来るのでは無いでしょうか?電車で席を譲る時に、「自分は偽善者だから席を譲れる」という風に自分に対する心の許可が降りやすいのでは無いでしょうか?実はこれはとても大きくて、偽善者だから出来るという事は、自分の心理に働き掛けて行動に移しやすいのです。

偽善者でいつづけていたら善人になれた

こうして偽善者である自分に馴れてくると、今度は本当にいい人になれてしまいます。最初は偽善のつもりで繰り返していた事が習慣化し、よい行いをする事がどんどん当たり前になっていくからです。

それに加えて、役割性格という心理が働きます。役割性格とは、いわゆるなりきりです。例えば警察官になった時、制服を着ただけでも何となくいっぱしの警察官の雰囲気になります。

居酒屋で働くと、何となくあなたのイメージの居酒屋の定員さんを演じますし、ホテルで働くと、何となくあなたのホテルマンの雰囲気を自分で演じますよね。これは意図的に演じている訳では無く、そういう状況になりきってしまうのです。ですので、いい人を演じ続けると、本当にいい人に成り易いのです。

本質として、偽善という事は良くない事かも知れませんが、悪い事をしている訳でもありませんから、マイナスに捉える必要はありません。その上、偽善を演じているうちに本当に良い人になれるのであればしめたもの。そういう意味では偽善をオススメします。

偽善だろうが、善だろうが、結局は行動が習慣を変えて、それがまた人を変えていくのだという事なんです。自分のためにも、周りの人たちのためにも、最初は偽善で構いませんから、良い行動を沢山積み上げていってみては如何でしょうか?振り返った時に、最初に想像していた自分よりも、ずっと素敵な人になれているかも知れません。

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