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自分の生き方に責任を持つため、「矛盾」の本質を乗り越えよう

30歳から40歳を過ぎた壮年の男は、自分の生き方に責任を取りたいものです。責任を持って生きるとは、つまり信念を持ち一貫した志を守って生きていくということです。周囲に流され、トレンドを追いかけて受動的に生きていくだけでは、しっかりした大人の男とは申せません。ではどんな点に気をつけたら、そういう生き方ができるでしょうか。

判断停止と信念

信念を持つということは、言い換えると、疑いを排除するということです。これはこうであるに違いないと信じるのですから、それに対する疑問をとりあえず封鎖します。これは一種の「判断停止」でもあります。

判断停止は、いったん理性をストップさせることにもつながっています。つまり、理性を超えたものへの信仰がなければ、それはできません。人間は未来を知り得ない存在ですから、志を抱くということ自体が、ある種の信仰を持つことなしには成立しがたいものなのです。

心には皮膚がない

「信仰」などと言うと特定の宗教のように感じられてしまうので、「賭け」と呼んでも同じことです。立志というのはひとつの賭けです。

ところで、人の心は身体とは違って皮膚というものを持っていません。五体は皮膚に取り巻かれており、自分と他人とをはっきり区別していますが、心には皮膚がないので、内と外とが峻別されていず周囲に溢れ流れ出します。他人と融け合い、交渉し合い、傷つけ合いつつ変化していくもの、それが心です。

他己あってこその自己

「自分」という言葉をよく見てみましょう。これは「自らの分際」という言葉です。分際というのは、身分ということであり、他者との関係の表現です。ですから、自分というのは孤立しては存在しません。もし周囲が突然、雲散霧消してなくなってしまったとしたら、自分は鏡を失ったように自分を見失い、無になってしまうことでしょう。

「自己」という言葉に対して「他己」という言葉があります。他人の自己ということです。自己と他己があって、人間の社会です。他己があってこそ、自己があり得るのです。

関係性の「合わせ鏡」が世の中

誰かに対して「責任を取れ」と命令することは、それを命令した者が、その命令をしたことに責任を負うことになります。人に責任を負わせることは、彼に責任を負わせたということの責任を負うことなのです。

ですから、責任というのは鏡です。責任を取れと言うことは、そう言った責任を逆に取らされることです。孤絶した個人があり得ないならば、一切は関係性の「合わせ鏡」の中にあることになります。

人生を闊歩していくためのコツ

立志は、賭けです。一本の道を選び、それに命を賭けることが立志です。しかしながら一切は「合わせ鏡」の構造になっている人間社会ですから、絶対に正しいと言える道は、ないと言っても過言ではありません。全てが相対的な正しさしか持っていないということです。

そういう中で自分の唯一の道を見出して信じること自体、ある意味で「矛盾」しています。でもその矛盾を矛盾として受け止めた上で、自信を持って堂々と生きている人はたくさんいます。相対的でしかない社会において、確たる信念を保持して人生を闊歩していくコツは、一体どこにあるのでしょうか。

相対的なものの中の絶対

冒頭に述べましたが、信念を持つということは、実は「判断停止」であり「賭け」なのです。世俗のものごとは百人百様で見解は百花繚乱、どの理論にも一理はあり、絶対の正義などは架空のものと受け止めておいた方が賢明です。そうであれば、気に入った一理を選んで、それを信条として雄々しく生きていくしかないではありませんか。

狂信する必要はありません。一時のスタンスとして自分の哲学を持ち、自分の言動に責任が持てればそれでいいのです。永遠の責任など誰にも取れません。「今」の自分に責任を取れればいいと考えましょう。

合わせ鏡の世の中で、信念を持ち責任を取るということは、相対の中で絶対を演ずることです。自他ともに認める風格ある役者でいられたら、それで満足すべきです。

もう少し先に行けば自分の天命が見える

子供は一切を疑念なく受け入れて生きています。大人になると、一切を疑うことができますが、長い時間を生きた経験から何かが「分かって」もいます。そうした中で、子供の描く夢とは一味違った「志」を立てるスタンスが生まれてきます。それは自分なりに、自分を把握した者の余裕です。

そして自分の選んだ道に命を賭けて生きていけば、もうすぐそこに自分の「天命」が見えてきます。もう、半分くらいは見えてきた人も少なくないことでしょう。孔子は言いました。「五十にして天命を知る」と。

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