常識をぶちこわし、自分のやり方で幸せに近づく生き方
十代の頃は、自分と違った考えを持った人がいるというのは、本や映画の世界での話であって、ひとりもあわなかったように思います。わたしが見ようとしなかったのか、本気で人とぶつかってこなかったのか、心優しい人に恵まれたのかはわかりませんが、自分の世界があの頃のわたしのすべてであり、他には何も存在しなかったわけです。
それがわたしの常識であり、当たり前の事だったのです。しかし、年齢を重ねるにつれ、それでは生きて行けないのだという事も、社会が教えてくれるようになりました。時には辛辣な罵声を浴びせられた事もありましたし、悔しい思いもしましたが、そのおかげで自分がどうすれば幸せにこの世界を生きられるか、という概念に近づけたような気がするのです。
今日は、常識をぶちこわし、自分のやり方で幸せに近づく生き方にについてお話ししようと思います。どうぞ最後までおつきあいいただき、幸せな人生を歩んでください。
常識という概念はそもそも存在していない
なので、わたしはこう思うとか、あなたはこうあるべきだ・・・という考えは、早急に手放した方が良いです。自分が当たり前と思っている事は相手には当たり前ではないですし、それが通じる事は絶対にありません。自分の中の常識を他人に伝えないようにしましょう。
わたしの父親が、いつも「おれならこうする」「それが常識なんだから彼はこうあるべきだ」、などという事をよく口にして孤立する人でした。
父親はわたしにとっての反面教師でした。自分の価値観と他人の価値観が一致する事はなく、お互いの譲り合いによって、社会というのは、また人間関係というのは成り立っているのだなと感じた次第です。
常識をひとつひとつ壊して行くと新しい自分が見えてくる
わたしは、このように誰かや何かの影響で、自分はやってもないのに食わず嫌いでいる事がよくあります。そして1年ほど前にレバーを食べてみたのですが、やはりまずかったです(笑)。いや、先入観通りになりたくなかったので、かなりおいしいと評判のお店で、結構なお金を払って食べて来たのですが、やはり苦手でした。
ただ、苦手かどうかは、食べて初めてわかった事で、それまでは食べてすらおらず、語る権利も無かったのにも対し、今はちゃんと食べて、まずいと感じたわけですから、これはわたしの意見なわけです。他にも食べ物だけでも、こういったことは腐るほどあります。なので、わたしは気づいた時点でひとつひとつ挑戦していき、本当にその偏見は正しかったのかどうか確かめて行くようにしています。
しいたけも兄の影響で子どもの頃に嫌いになったのですが、大人になるまでわたしも口にする事はありませんでした。しかし、あの香ばしいなんとも言えないおすましとの絶妙なマッチング。とてもおいしいなと最近では感じるようになり、もっと早く食べておけばよかったと後悔していたりします。
たかが食べ物で何が発見だ!という人もいるでしょうが、こういう新しい事に挑戦して、自分の常識を壊したという経験の積み重ねが、新しい自分というものをひとつひとつ構築する要素であり理由となっているのですから、決してあなどってはいけません。
非常識の先にあるもの
大事なのは、人から外れる事ではなく、新しい自分を発見する事ですから、おかしくても笑われても関係ないのです。これは他人のための人生ではなく、あなたの人生ですからね。