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家康31歳。おもらしは絵に描いてでも忘れません

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2014.04.10

江戸幕府を開いた徳川家康のおもらし事件は可哀想なほど有名な話になってしまいました。というわけで家康のおもらし話です。何か食している方(とくに味噌系)はいったん置いておきましょう。

もらすほどの戦慄。三方ヶ原の戦い

1572年、武田信玄は西を目指して動きます。理由は信長を倒しに行ったとか上洛するためとか諸説あります。道中、信玄は徳川方の城を落としつつ邁進。信玄の軍は約2万5千といわれ、総動員での出撃だったようです。

このとき徳川は織田と同盟を結んでいました。このまま信玄を見過ごすと信長のところまで行ってしまいます。どうにかしないと信長さまに怒られますし味方に面子も立ちません。しかし信玄は家康のいる浜松城を素通りしてしまい、待ち構えていた家康は動揺します。

こないの?なめてんの?とにかく何とかしないと信長さまに何を言われるかわかりません。また家中もまとまっておらず、何もしないとなると離反が続出するとも限らなかったのです。そこで家康は城から出撃します。

または、様子を見に行った者たちが次々と勝手に小競り合いをし始めて帰ってこないため「何やってんのよー」と仕方なく出陣したという話もあります。どちらにせよ、家康は籠城をやめてしまいます。

ところがどっこい、それが武田の作戦どおりだったのです。病を患っていた信玄にとって城攻めは不利、というか時間がないのでちまちまやっていられなかったのでしょう。そこで徳川をおびきよせて野戦にもちこんだのです。

この時の徳川軍は、織田からの気持ちばかりの援軍をいれても武田の半分に満たないほどだったようです。信長さんは他に敵が多くて援軍を出せる余裕がありません。また、織田援軍のなかで奮戦したのは平手汎秀のみで、共にいた佐久間信盛は逃げてしまったとのこと。

反転して襲いかかる武田軍に圧倒され、徳川はどんどんやられていきます。家康も危ないところまで追い詰められますが、夏目正吉が身代りになったおかげで何とか逃げきることに成功したのです。

しかしあまりの戦慄に肛門が緩み馬上でおもらし(大)してしまう家康。馬もやってらんないです。しかも家臣に対し「これは焼き味噌だ!」といってのけます。家臣も「でしょうね」というしかなかったことでしょう。その後もらして腹が減ったのか湯漬けを食ってふて寝したそうです。

おばあさんに追われる狸

逃げる途中の話としてもうひとつ、餅の食い逃げをしたという話もあります。空腹に耐えきれなくなった家康は茶屋に立ち寄り、餅を食べていました。しかし遠くに武田の追手の姿を捉えます。あわてた家康は金を払わないまま馬に乗り逃げ出します。

そんな家康に迫ったのは追手ではなく茶屋のおばあさんでした。食い逃げされたと思ったおばあさんは馬に追い付く人外の速さで家康を追いつめます。何だかそんな怪談ありましたね。捕まると死にそうですがお化けではないので、お金を払ってまるく収まります。

以来、茶屋の場所は小豆餅、金を払わされた場所は銭取と呼ばれているとのこと。この話は創作の可能性が高いようです。おもらしとの前後関係もわかりません。もらしながら餅食ったりはしないでしょうね。おばあさんが怖くてもらしたのかもしれません。

おもらしという名の重荷を背負う

おもらし、もとい敗戦を忘れないように、己の無様な姿を家康は絵師に描かせました。何とも言えない面構えの絵は「しかみ像」と呼ばれています。味噌だと言い張ったかと思えば絵に描かせたりと隠したいのか曝け出したいのかわかりません。まあおもらしの絵というわけではありませんけども。

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