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家族のニュースタイルを描くための基礎はこれ

人間は、生と生殖と死という人生根本の事柄を、家族と親族という一つのネットワークの枠組みの中で長い間うまく処理してきました。家族というのは、社会が血縁と婚姻を通して人々を一定のパターンに組織し、それを社会の最小の単位として認めることで、政治も経済も宗教も文化も教育も、多種多様なものを巧みに機能させて、歴史を築いてきたものだと言えます。

家族の温かさを取りこぼしてきた

ところが、家族という秩序がこれまで果たしていた機能が、徐々に別の専門的な機関に奪い取られていくという事態が生じています。例えば育児、しつけ、家庭教育、職業教育、看病、介護などです。奪い取ったのは学校であり、病院であり、保育所であり、外食産業であり、塾であり、コンビニであったりもします。

それによって家庭・家族の存在基盤が脆弱なものになり、家族同士の依存関係や信頼関係が薄くなりつつあります。言わば仮借なき近代化のお蔭で、物質的な繁栄を手に入れたその代償として、人間らしい家族の温かさ、ぬくもり、思いやりといったものを、どこかに取りこぼしつつあると言うことができるかもしれません。

閉鎖された家庭の陥る悲劇

福祉と家庭との関係を考えてみましょう。

最近では大分少なくなりましたが、福祉の世話になることを何か恥ずかしいことだと受け止めている人々がいます。そうかと思えば、福祉を利用するのは当然の権利であると考えており、それが行き過ぎると一種の「たかり」の根性が芽生えて、まだ働けるのに怠けて公的扶助にぶら下がろうとする人々もいなくはありません。

その辺は実に微妙で、「お上の施しを受けたくはない」と言って家族だけで頑張っていて、傍目には同情したくなるような例も少なくありません。極端な例では、家族が悪く固まってしまい、他人の介入は嫌だと言って排除し、その結果いろいろな虐待事件や骨肉の憎しみ合い、しまいには殺し合うような事態さえ起こっています。そうした閉鎖された家庭は、実は「家庭のない家族」と呼ぶべきものであります。個々にばらばらになった個人が一つ屋根の下にいるだけだと言えましょう。

父という存在の孤独な影

家庭における「父」という存在は、実は不思議な性格を持っています。多くの鳥を見ても分かりますが、オスはタネつけをするとどこかへ去ってしまいます。メスと子だけが家族を構成しています。人類が歴史の中で社会的に作り上げてきたものが「父親」であるとも言われています。母親ほど自然なものでないことは、確かです。

父というものは、家庭の中で本質的に孤独な存在です。家族の皆と一定の距離を置いて存在し、愛よりも厳しさで子を教育します。哺乳類のオスとメスには明確な役割分担があります。男女平等は職場倫理や社会思想として尊いことですが、家庭の中では同じ役割とはいかないのが過半の現実です。それを不自然と決めつけたり、まして理不尽や差別だと言ったりするのは、あまり賢明とは言えないでしょう。

日本独自の家族の在り方を

家庭と地域のかかわりにも目を向けなければ、家庭の健全なあり方を知ることはできません。向こう三軒両隣と言いますが、家庭同士がお互いに孤立するのではなく、近隣と相互に見守りし合い協力し合って地域力を育んでいく姿勢がないと、災害などいざというときの対応ができません。幼い子供や年寄りは地域で守っていくという部分が絶対に必要です。

ニューファミリズムがあるとすれば、親子の縁を生理学的・即物的にとらえるのではなく、子供は天からの授かりものであるというような深い視野が重要です。子供は親の持ち物とは違います。西欧の個人主義の伝統を持たない日本は、ただ単に自由・人権を物真似で提唱しても中身がありません。日本人はどこにいても神聖な何ものかが自分を見下ろしていると感じています。そうした鎮めの文化に基づく、「独自の家族主義」を模索していくしかないでしょう。

家族は魂の帰所である

家族は社会の鏡と言われます。家族の観念はお国柄でそれぞれの色合いを持っています。欧米の子供たちは幼いころから自由と責任をきちんとしつけられています。中学生にもなれば一人前と見なされ、ベビーシッターもできます。それなのに日本では、親がいつまでも子供を保護したがり、30歳までパラサイトさせている例などが腐るほど見受けられます。そういうのは家族の一体感が強いとは言いません。甘やかしの軟弱家族と言います。

家族というのは心の古巣であって、いくつになっても魂の帰所でありたいものです。若くして家族から離れていくとしても、行く先はやっぱり家族なのです。家族愛から遠く離れてしまった人は、男も女も魂のどこかに素寒貧(すかんぴん)を抱く人です。日本人らしい温かい家族の在り方を真剣に模索していくことが、今求められています。