> 趣味・ライフスタイル > バブル期に学生だった自分や友達がやってきた変わったアルバイト

バブル期に学生だった自分や友達がやってきた変わったアルバイト

バブル全盛期は学生だった。就職は売り手市場で、内定を何通ももらった。企業は内定者の囲い込みのため他社に行かないように海外で研修をした。もちろん旅費は企業負担だった。研修と言っても名ばかりで、大半が観光だった。そんなバブル時代は、現代のような多様なアルバイトはなかったが、楽しいバイトやマニアックなバイトがあった。

私も友人たちも学生時代はせっせとアルバイトに励んだ。二年時には「そんなにバイトばかりして勉強の方は大丈夫か?」と予備校の先生が訪ねて来た時もあった。バイトは塾講師と家庭教師が主だったが、合間に様々なアルバイトをしたので紹介する。

石切りバイトは一切で5000円

「石切り」というバイトがあった。石を一回切断すれば5000円位。一日頑張って、二回切断すれば10,000円、三回切断すれば15,000円。美味しいバイトだ、と思って応募した。採用され現地の会社に行った。墓石の製作会社だった。石切り用のこぎりを渡され、線を引かれたとおりに切断すればOKのアルバイトだ。

午前9時に集合し説明を受け、10時から切断スタート。あとで研磨するから切断面が荒くても良い、と言われた。体力勝負のバイトだったが、予想以上にきつかった。休みながらの作業だったが、結局午後7時までかけてやっと一回切断できただけだった。

三日でやめたホストのバイト

金融機関に就職が決まり、社会人になれば酒に強くなければならないと思い、ホストのバイトを一日やった。ルックスが良いわけではないのでヘルプとして仕事をしたが一日に飲む酒の量はボトルで7~8本だった。

現代ではホストは夜の華の一つになっているが、当時はまだマイナーな仕事だった。ボトルの量で売上が決まるので、お客さんと一緒に飲む。飲んでは吐く、を繰り返した一日だった。採用時の約束の三日を乗り切るのに必死だった。

時代祭のエキストラ

バイト料に関係なく、異常な人気だったのが、時代祭のエキストラのアルバイトだ。当時は学生相談書(通称『学相』)と大学のバイト斡旋窓口でバイトの職に就く。時代祭のバイトは京都の『学相』で扱っていた。希望者が募集人数を超えた場合はジャンケンになるが、このバイトは殺到するため抽選で選ばれていた。一度はやりたかったが、一度も選ばれず出来なかった

年末のみかん箱売りバイトは日給+利益だった

今では年末年始も営業しているスーパーも多いが、当時は年末年始を定休日にしているスーパーが多かった。売れ残り商品は4日間倉庫で眠ることになる。生鮮食品は腐ってしまう。薄利でも12月の最終営業日に売り切ってしまう方が良い。そこでみかんの箱売りのアルバイトがあった。

12月の最終日と前日の2日間のアルバイトで、2日間で15,000円位だった。最低売価が決められ、通常価格から最低売価までバナナのたたき売りの様に値を落としながら売る。三人のチームで売る。友人二人と三人で応募した。日給の高さに惹かれて挑戦したが、万一売れ残ったら、最低売価で引き取らなければならなかった

スーパーの店頭でマイク片手に面白おかしく売る。何箱も買っていく客相手に売っては車で運んだ。三人で手分けしないと売り場がいつの間にか無人になる勢いだった。1箱だけ三人の自腹で買い取り開封して見本を作ったり試食に充てたためか、二日目の午前中で完売した。利益は10万円弱で三等分した。

他には、大学が高級住宅街の近くにあったため、海外旅行に行く家の留守番バイト、徹夜勉強をする高校生(医者の息子)を見張るバイトをやった。友人も死体のホルマリン漬け、デートの代役、ライブハウスのサクラなどをやっていた。大学祭実行委員会だった時は、パンフレットの印刷代が払えず交代で印刷所のアルバイトをした。学生時代は夢中で走り抜いた時代だった。アルバイトも然りだ。読者の皆さんは、どんなアルバイトをしましたか?

スポンサードリンク
スポンサードリンク