木下藤吉郎から羽柴秀吉へ。サルと言われハゲネズミと言われ
サルの愛称(?) で有名な豊臣秀吉。最近はハゲネズミのほうも認知度が上がってきました。それは置いといて「豊臣」は関白就任後に賜った姓で、以前は羽柴、さらに前は木下藤吉郎と名乗っていました。
曖昧な出自
秀吉は百姓の家に生まれたというのが通説でしょう。とはいえ親父さんは足軽だったとか村長だったとか史料によって肩書が違っています。ただ身分が低かったとしか書いてないものもありします。信憑性が云々言われているのではっきりしていないようです。
名と猿
秀吉の幼名は日吉丸といわれています(真偽不明)。比叡山焼き討ちの際に焼失した日吉大社の再建に秀吉は努めたのですが、これは秀吉の幼名が日吉丸であることと、日吉大社では猿を神の使いとしていることから猿と呼ばれていた己との縁を感じた故だとか。
信長のもとへ
もとは今川家の臣である松下之綱に仕え、その後信長に士官したとのこと。そのあたりの経緯は知り合いの紹介だとか己で売り込みにいったとか吉乃さん(後の信長側室)に頼んだとか諸説あってよく分かりません。
生ぬるい草履
信長様の草履を懐で温めた話は有名です。人肌の草履ってどうなのという気もしますが、信長さんは秀吉の気遣いに感じ入ったとか。
結婚します
1561年、秀吉は浅野長勝の養女おね(ねね)と結婚。夫婦仲は良かったものの秀吉が側室を持ち始めたためか、おねさんは信長に何か愚痴ったことがあるようです。その後日、信長がおねさんにしたためた有名な手紙があります。
以前にもましてきれいになったと褒め、「美しいそなたが居ながら不足を言うとは言語道断。あのハゲネズミはそなたほどの妻を二度と得ることは出来ない。気持ちを明るく、重々しく構え、嫉妬したりしてはいけないよ」と諭します。優しい信長さんです。ハゲネズミを世に知らしめた手紙でもあります。
金ヶ崎の退き口
信長は妹婿、浅井長政の裏切りによって朝倉と挟み撃ちにされて窮地に陥ります。秀吉は明智光秀らと共に殿を努め、信長の退却に貢献しています。
城持ちに
その後、浅井朝倉との姉川合戦後は横山城の城代を任され、1573年に浅井を滅ぼした後はその旧領を与えられて長浜城の城主となります。この頃に羽柴と改名したとか。
羽柴の羽は丹羽の羽。羽柴の柴は柴田の柴
秀吉が名乗った羽柴という姓は同じく織田家臣の丹羽長秀と柴田勝家の姓から一文字ずつ貰ったという話があります。真偽のほどは分かりません。お二人にあやかって的な感じとか。でも勝家さん倒しちゃったじゃない秀吉さん。