さまざまな人を巻き込んだ豊臣秀次の切腹。その原因と結末は
豊臣秀吉は正室のねねさんのほかに側室を十人以上持っていたようですが、なかなか子は出来ませんでした。やっとこさ息子が出来たものの、間が悪いというか何というか、大惨事に発展してしまいます。
鶴松の死去
1589年、側室の淀殿は秀吉念願の男の子を出産。ところが鶴松と名付けられたその子は病弱で、1591年に数え3つでこの世を去ります。秀吉は落ち込みに落ち込んだ末、実子を諦めたのか甥っ子(お姉さんの子)の秀次を養子にして関白の座と聚楽第を譲ります。
秀頼の誕生
どっこい1593年、側室の淀殿がまたしても男の子を出産。これが後の秀頼です。とはいえ既に秀次は後継者と召される立場。一度譲ってしまうとやっぱりやめたとはできないようで、険呑な空気に。そして秀次は謀反の容疑を吹っかけられてしまいます。
秀吉が秀頼を跡目にしたくて秀次が邪魔になったとも淀殿が画策したともいわれていて筋書きは諸説あります。何かと黒い話に絡まってくる石田三成の讒言によるという説もあったりします。兎にも角にも秀次は高野山へ蟄居させられた後、切腹を言い渡されます。
殺生関白の噂
殺生禁止の比叡山に狩りに行ったり、辻斬りしたり、妊婦の腹を掻っ捌いたり、民草を的に弓や鉄砲の稽古をしたりなどなど残虐極まりない所業を秀次が行ったと専らの噂になったようです。しかしこれは秀次の切腹を正当化するためのでっちあげだろうと言われています。
切腹した秀次の首級は後日、三条河原の側室や子供、侍女など、秀次の連座で処刑される者達の目に晒され、皆その首に拝んでは順に殺されていきます。その数は39人。遺骸はまとめて穴に放り込まれたとのこと。ちなみに正室(池田恒興の娘さん)は助命されています。
巻き込まれた人々
秀次は最上義光の娘さんで可愛いと評判の駒姫を頂戴としつこく頼みこみ、断り続けるわけにもいかない義光も渋々応じます。しかし秀次の切腹が決まるに伴い、輿入れのため上洛したばかりの駒姫も処刑されることに。
義光はもちろん、他の諸将も駒姫の助命を秀吉に頼みますが聞き入れようとしません。処刑の直前に気が変わった秀吉も「出家でいいか」と助命を決めたものの、それを知らせる早馬が間に合わずに駒姫は処刑されてしまいます。享年15、しかも遺骸すら返してもらえないという酷な結末に。
義光は「これも己の業か」と嘆き、駒姫の母は後を追うように亡くなったと(自害とも)いいます。義光自身も連座を疑われますが、徳川家康の執り成しもあって疑いは晴れます。他にも細川忠興や、何かと怪しまれる伊達政宗も詰問されたようですが事無きを得ています。
このとき疑われた人たちの大半は関ヶ原にて徳川に加担。秀次の腹切り事件は豊臣家滅亡の遠因と言われたり言われなかったりします。