弟さんが目立ち過ぎて影の薄くなりがちな真田信之
真田信之(信幸)は日本一の兵と謳われた真田信繁(幸村)のお兄さんです。松代藩の祖となった信之お兄さんは結構頑張っているのに親父さんやら弟さんやらより知名度の低い感が否めません。
真田昌幸を父に持つ信之は1566年生まれ。幼名を源三郎、初名を信幸と言います。関ヶ原の後に、真田の通字である「幸」を「之」に改めたとのこと。これにより徳川への忠節を示したと言われます。便宜上、以下から信之で統一します。
親父さんは表裏比興
真田家が武田の家臣であった頃は信之も武田に居ましたが、1582年に武田が滅ぶと戻ります。その後真田は織田に従うも三か月後に本能寺。次は北条に従ったと思いきや敵対します。侵攻してきた北条軍は手子丸城を落としますが、その北条軍五千を信之は八百で撃退したという逸話も。
第一次上田合戦
その後は徳川に臣従した真田。徳川は北条との和睦の為に沼田を渡せと命じますが昌幸が拒否ったため対峙。徳川は上田城へと攻めかけますが昌幸の作戦にはまって撤退。信之は退くと見せかけて徳川をおびき寄せるのに貢献したとか。信之の手紙によると徳川方を千三百ほども討ち取ったとのこと。一方真田の死者は四十という説もあります。
この戦の後、昌幸は豊臣秀吉に臣従。徳川とも和睦して、信之は徳川家臣の本多忠勝の娘で家康養女の小松殿を娶ります。小松さんはなかなか勇ましいお方のようです。
小松さんの武勇伝
関ヶ原にて東西どちらにつくかを話し合った犬伏の別れ。「家康に付くとかありえないし」と言う弟に、信之は半ギレで刀を抜きかけたとか何とか。昌幸と信繁は石田方、信之は徳川方ということで話はまとまります。
その後、昌幸、信繁は小松さんが留守を預かっている沼田城へと立ち寄ることに。「孫の顔がみたいなー」という口実をつけて城へ入ろうとした昌幸さん。しかし出迎えたのは完全武装の小松さんです。信之から事前に家族会議の結果の知らせが届いていたのです。
「敵味方に分かれることになった以上、城へ入れるわけにはいきません故に帰れ」と凄む小松さんを前に、昌幸も諦めます。その後、近くの寺で休んでいた昌幸たちのところへ子供たちを連れて小松さんが訪れます。城には入れられないが、孫に会いたいという昌幸の願いに応えた小松さん。優しい人なのです。ちょっと怖いですけど。
助けてください
関ヶ原の際に西軍についた昌幸と信繁。徳川本隊を上田城にて足止めした罪で家康は処刑する気満々です。ここで信之さんは己の貰った領地はいらないから親父と弟を助けてくれと家康さんに懇願。
信之の舅である本多忠勝も「助命しないなら私が殿と一戦仕る」と物騒な台詞をもって家康を説得したとか。戦で傷を負ったことがないと名高い忠勝にそんなこと言われたらしい家康も折れ、「じゃあ高野山に配流ね」と助命を認めます。信繁が大坂の陣で活躍できたのはお兄さんが必死に命を繋いでくれたおかげです。
とてもご長寿
信之さんはなかなか家督を譲ることができず、ようやく隠居できたときは九十歳、そして息子さんは六十歳。還暦な年齢で家督を継いだ二代目ですがその後二年ほどで他界してしまいます。
跡目候補が二人いたことで揉め始めると、隠居した信之さんが跡目を決めることに。九十越えのご老体にも関わらずゆっくりさせてもらえなかった信之さん。九十三でこの世を去ります。