利休七哲だったり十哲だったりする十数人。ぼんやりなのも侘び寂び
千利休の高弟を利休七哲やら十哲やらと呼びます。この時点ですでにうやむやですが、面子も「後世の創作」にありがちな「入れ替え制」なので更にうやむやです。侘び寂びですね。そんなわけで彼らは七哲もしくは十哲のくせに十数人もいるのです。
すごいらしい三人
蒲生氏郷、細川忠興(三斎)、芝山宗綱(監物)は利休門三人衆と呼ばれます。七哲十哲の中でも彼らは変動しないようです。この三人は、利休さんの弟子でも特に優れていたとされる七哲やら十哲やらと呼ばれる人たちの中でも、特に優れていた人たちです。
氏郷は七哲の筆頭格とされます。人質として織田へ送られますが、信長さんの娘の冬姫を奥さんにもらうほど、信長さんのお気に入りだったようです。利休さんの死後、その養子である少庵を匿います。鶴ヶ城にある麟閣という茶室は、少庵が氏郷さんのためにつくったものといわれています。
忠興については奥さんのガラシャさん(洗礼名。本名は玉子さん)と目が合っただけだの挨拶しただけだのという庭師を斬殺するほどの愛妻家で有名です。一方かなりの教養人でもあるという振り幅の広い忠興さん。三斎流という茶道の流派の祖でもあります。
利休さんに切腹が命じられた際、忠興は古田織部とともにお見送りしています。下手すると巻き添えでお咎めをくらうとも限らないわけですから、よほどの恩義を感じていたのでしょうか。この時利休さんはふたりに茶杓をプレゼント。忠興は「ゆがみ」、織部は「泪」とそれぞれ名づけたそうです。
監物は利休さんに気に入られていたらしく、長次郎という楽焼の陶工に自分好みに造らせた茶碗を、利休さんは監物にあげています。お礼に監物が雁を利休さんに贈ったことから茶碗は雁取と呼ばれるとのこと。また、監物は長すぎる掛け軸を飾る為だけに床の間の天井を上げたという逸話もあります。
七哲十哲の候補な方々
利休さんの曾孫さん、江岑宗左の残した『江岑夏書』によれば上の三人と瀬田掃部、高山右近、牧村利貞、古田織部を七哲としているようです。文献によっては織田有楽斎、千道安、荒木村重、前田利長、有馬豊氏、金森長近が出たり入ったりします。
掃部は秀吉に仕えていましたが、秀次と仲良しだったために共に処刑されてしまった人です。茶道ではさらし茶巾を考案したことで有名なようです。右近はジュストの洗礼名を持つキリシタン大名です。後に江戸幕府による禁教令でマニラにはるばる流され、その地で没してしまいます。
古田織部は有名ですね。歪みに美を見出すなど前衛的な感覚の持ち主です。大坂の陣で豊臣に内通した疑いをかけられると、言い訳することなく切腹しています。
信長の弟、有楽斎も利休さんの弟子です。有楽町の語源であることで有名ですがそれ以外では話題になりにくい気もします。道安は利休さんの長男ですが利休さんとは仲がよくなかった時期もあったようです。
村重は有岡城落城の際、妻子と家臣を置き去りにして皆殺しにさせたというのに、己は後に茶人となって生き延びるというメンタルの持ち主です。ちなみに村重の奥さんはキリシタンで、洗礼名はダシです。出汁ではありません。洗礼名です。
利長は五大老にまでなった前田利家の息子さんです。そんなわけで、何人か割愛しましたがとりあえずたくさんいるわけです。うやむやなら寧ろ人数固定しなくてもいいような気もします。