人間嫌いという人ほど独りでいられない理由とは?
なぜ人間嫌いなのに人と接触しようとするのか?
たまに、自分は人間嫌いです!という人を見かけることがありますが、もし本当にそうなら隠者のような生活をして人里になど下りては来ないのでは?と思ってしまいます。ところが、人間嫌いという人ほど雄弁に物事を語ったりするというパターンが多いのは何故なのでしょうか?
ひとつは、今まで出会ってきた人達で自分に合う人が少なかった、またはいなかったという場合もあるでしょう。この場合は、本当に出会いが悪かったというケースもあれば、自分自身に問題があるといったケースもあるでしょう。
自分自身に問題があるケースですと、いくら場所を変えて出会う人達を変えたとしても同じような結果にしかならない可能性のほうが高いでしょう。また、本当に出会いが悪かったというケースならば、出会う場を変えれば自分と合う人達と巡り会う可能性も高くなるでしょう。
しかし、自分自身は変えない、出会う場も変えないでは人間嫌いですと言うようになっても仕方ないのかもしれません。ところが、沢山の人達と交流をして人間嫌いになるのと、ほんの一握りの人達との出会いの結果で、自分を人間嫌いと判断するのとは違いがあります。
単に気に入らない他人が多いだけ?
狭い人間関係だけで、自分を人間嫌いだと言っている人は、本当は自分に合った人達ともっと出会ってみたいという願望もあるのでしょう。真の人間嫌いだとしたら、まず自分から人間嫌いとも言わずに誰とも交流を持たないものです。
隠者というか、本当に人間が嫌いな人というのは他人にはまったく興味がないもので、まず他人のことが話題になることもありませんが、人間嫌いをアピールする人というのは自分の気持ちをわかってもらえないので、オマエなんか嫌いだ!と駄々をこねているだけなのかもしれません。
それを、他人に何とかしてわかってもらおうとしているのかもしれませんが、それならば自分と分かり合える人達が多くいそうな場を、自分から求めるといったような行動を取ればいいのですが、それは怖いといったところでしょうか。
例えば、川に釣りに来て川魚しかいないと文句を言ってるようなものかもしれません。海の魚が釣りたければ海に行けばいいだけの話なのですが、海は怖いし遠いから川でしか川魚の文句を言えないとか・・・
人生は場所も自分で見つけるという意識が必要です
人間なんて、住んでいる場所が変われば価値観もそれぞれ変わってくるものです。関西には関西独自の価値観があったり、北海道には北海道の独自の価値観があったり、東京などになりますと価値観の多様化なんて人それぞれといったところでしょう。
人間嫌いと自分から言う人というのは、いったいどれだけの多用な価値観の人達と出会ってきたのでしょうか?ひょっとすると、自分の周りにいる人間を嫌いなだけなのかもしれません。そうでなければ、嫌いであるはずの人間に向かってわざわざ自分からアピールするといった事もないでしょう。
本当に人間嫌いであったら、人間であれば誰とも話したくないはずですし、その前に自分も人間だろうって・・・
狭い地域の人間だけを見て、自分は人間嫌いだと判断するのは早過ぎるかもしれませんので、男の人生は自分の手で切り開いてみせる!というような意気込みで様々な場所を見つけていったほうが、男としての人生を謳歌できて味わい深い人生になるかもしれません。