信仰の自由って何?宗教心ゼロの大人でいいのか?視点を挙げてみた
信仰の自由という観念は、個人が自分の宗教を選択することを前提として成り立っています。
個人が自分の意思で宗教を選択し入信しなければ、その人にとって宗教はないに等しいのです。
ところが、多くの日本人にとって宗教とはもっと多様で不定型なものであり、自然への畏怖の念とか、祖先を崇拝する気持ちとか、社会への感謝の想いとかと、不可分・不分明なあり方をしています。
神道は個人でなく集団の宗教だった
民俗学者の柳田國男は、神道に対する信仰心を強く持っていた人でありましたが、葬式は仏式で行いました。これは神社は葬式に馴染まないという考え方によるものです。多くの日本人が共通に持っている感覚であると言えましょう。
近代の宗教は個人が信仰するものですが、神道は国民全体が関わるものであり、その意味で神道は宗教ではないというふうに戦前の政府は主張していました。もちろんそれは戦時中の国家神道を保持するための苦肉の弁明であったとは言えますが、客観的に見ても、実は元来の自然な神道は土地とつながった信仰であり、個人というより集団の宗教であることは明確な事実なのです。
調和型と均衡型の文化の違いを知ろう
明治以降のさまざまな外圧と国際情勢により、日本は西欧的な宗教観を急速に受け入れざるを得ませんでした。けれどもそこには、幾つかの根本的な無理があったと言わざるを得ません。
日本民族にとって「信仰の自由」とは、いずれか一つの宗教を自分で選ぶ自由というものではなくて、多様な宗教を同時に受け入れ、併存させて生きる自由という色彩が強かった、というのが実態だったと言えます。つまり、いろいろな宗教をどれもこれも排除せずに、緩やかに受け入れ共存させていくという自由であります。
日本文化は、その本質において「調和型」なのです。それに対して西欧はその本質が「均衡型」です。調和は対立を嫌い、境界を立てず、妥協し同化していくものです。神仏習合のように。均衡は対立を事とし、勢力のバランスを図って綱渡りの政治を生命とします。核戦略のように。
一宗一派の信仰ではない宗教心というもの
現代の日本人は、多くの人が自分は無信仰であると誤解し、日本は無宗教であるという思い込みを持っているようですが、これが日本を曖昧にし分かりにくい国民にしていると言えます。少し考えてみれば分かりますが、和を以て貴しとなす国民性そのものが、実は調和型信仰心の一つのあらわれなのではないでしょうか。
世間の目とか、知人への義理とか、恥を知るとか、恩を返すとか、親への孝行とか、勤倹力行とか、みんなみんなこの国の伝統的な信仰でなくて何でありましょうか。それらはどちらかと言えば理知的でなく、情緒的な心情に基づくものですから、特定の一宗教(レリージョン)という形よりも漠然とした「宗教心」(ザ・レリージャス)に包括されているものです。
日本人の信仰の自由は、拒否しない自由
日本古来の神道は、西欧の宗派のような始祖・教団・教会・教義・布教活動・聖書といったものを持っているとは言えません。「古事記」はバイブルとは言えません。氏子と言っても、洗礼など受けておらず、ある土地に住めば自動的に氏子になって、祭の時にはおつきあいで寄付を奉納しているわけです。個人の入信はあってないようなものです。
そういう国柄である我が国において、「信仰の自由」とは何を意味しているのでしょう。ある二世の若者が高校での柔道の練習を拒否しました。道場に祭壇が飾ってあり、礼をすることを指導されたためです。彼にとっての信教の自由は、祭壇を拒否する自由なのです。日本人はクリスマスを祝ってから、年を越えれば初詣に群をなして出かけますよね。
教育の中から宗教心をそぎ落とすのは愚かなこと
新興宗教も今の日本には少なくありません。それらの信者さんたちも、一部を除けば他の宗派を極端には否定していないようです。神社仏閣にお参りすることもはっきりとは拒否していません。もちろん強制されたら断るでしょうが、お付き合い程度にはお参りもしている例が多いでしょう。図書館にクリスマスツリーが飾ってあっても、大げさでなければ苦情も出ないのがこの国の風土です。
日本で信仰の自由が最も強く影響している現場は、学校でしょう。教育から宗教を排除するのが公立学校のテーゼになっています。特定宗派の教えは排除して当然ですが、果たして日本民族特有の前述した「宗教心」まで否定するのは、妥当でしょうか。
否です。それでは道徳というものを教育できなくなってしまいます。広い意味での宗教心をそぎ落としてしまった人間は、動物化・即物化して心の狭苦しい存在になります。少なくとも「心の教育」を重視するならば、広い意味での宗教心は学校教育の中に取り入れて、人間力のある国民を育てていく必要があると言えるでしょう。