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そんなに悪いことしてないかもしれない梟雄松永久秀

主君殺し、将軍殺し、大仏丸焼きと信長も大絶賛の悪党、松永久秀。果ては自爆してこの世を去ったというぶっ飛んだ人です。しかしそんな彼の数ある武勇伝にも諸説あるのです。

三好一族の連続死

久秀は三好長慶の祐筆(書記)として仕えていました。長慶のもとで久秀は城持になるほどの重臣へとのし上がります。そんな中、長慶の弟である十河一存(そごうかずまさorかずなが。とても読みにくい)、息子の義興と相次いで死んでしまい、そしてこれまた弟である安宅冬康を長慶は謀殺してしまうのです。

一説では一存や義興は久秀の暗殺、冬康を殺したのも久秀の讒言を長慶さんが信じちゃったからと言われています。しかしながら義興は病死、一存は落馬が死因ともされています。冬康については久秀のせい説もありますが、長慶が己で危険と判断したためという説もあります。

いずれにせよ相次ぐ身内の死を気に病んだ長慶のテンションは下がり、そのまま死んでしまったのです。長慶の死にも久秀が一枚噛んでいるとかいないとか言われますが、精神的に参って体調を崩したというのが有力なようです。

足利義輝の最期

久秀は三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通。三好家の重臣ゆえの呼称であり、名字が三好じゃないやつがいるのは気にすることではない)と共に、将軍である足利義輝を襲撃し殺したと言われています。しかしその場にいたのは久秀でなく息子さんのほうらしいのです。まあ無関係とも言い切れませんね。

ところでこの義輝さんの最期には逸話があります。義輝は塚原卜伝や上泉信綱に習った剣の達人だったようです。襲撃に気付いた彼は将軍家に代々伝わる十数本の名刀を用意させると、その刀を一本一本鞘から抜き、畳に刺していきます。準備万端です。

そこへ入ってきた敵を、義輝は次々と斬り伏せます。刃の鈍った刀を捨てては刺しておいた刀を引き抜き止めどなく斬りつける義輝。三好勢は彼を止められず、死屍累々のさまです。とはいえ彼らも阿呆ではありません。

義輝の足元を槍ですくいよろめいたところに障子(やらふすまやら戸板やら畳やらといわれている)を畳みかけるように被せ、その上から槍を次々刺してやっとこさっと命を奪ったとのこと。真偽のほどはわかりませんが、壮絶です。

大仏は音を立てて燃え上がった

義輝の死後、つるんでいた久秀と三好三人衆との仲が悪くなり合戦にまで発展します。初め久秀は劣勢でしたが、三人衆に冷たくされた三好の当主義継(一存の息子さん)が久秀のもとへ逃げ込んできたのです。これをきっかけに久秀は形勢を立て直そうとします。

大和にいる久秀を攻めるため三人衆は東大寺に布陣しましたが、戦の最中に東大寺は炎上、大仏にいたっては首が焼け落ちるという縁起でもない状態になり果てます。久秀が放火したと言われていますが、三好方のうっかりで火がついたとも言われています。

また、ルイス・フロイスによれば三好方にいたキリシタンのせいだというのです。もっともこれは大仏炎上をちゃっかりキリシタンの手柄にしようとしただけとも考えられます。

爆発してない?

久秀といえば爆死、爆死といえば久秀といっても過言でないほど爆死の話は有名です。信長に謀反(二度目)を起こし、信貴山城に籠城する久秀。一度目を信長は許していて、今回も平蜘蛛さえくれれば許してあげるとまで言っています。信長さんは久秀を気にいっていたらしく、珍しく心が広いのです。

しかし久秀は平蜘蛛もわしの首もやらぬと、平蜘蛛の茶釜に火薬を詰め込んで己にくくり、点火して吹き飛んだというのですが、これも諸説あります。『信長公記』によると焼死であるとのこと。また、平蜘蛛も残っていたりします。久秀のものと伝わっている、というものなので本物かはわかりません。

余談です

三好三人衆との戦いの際に「クリスマスだから」と言って休戦したという話は有名です。また、一説によると久秀の築城した信貴山城の天守が素敵すぎたために信長さんが安土城天主を築く際にパクったと言われます。よほどの出来だったのでしょう。そしてこれまた余談ですが、久秀は二枚目だったようです。

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