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古くて新しい甲子園のスコアボード!伝統と最新鋭との共存

甲子園の象徴・スコアボード

阪神甲子園球場で圧倒的な存在感を示すのが、センターバックスクリーンの上にそびえ立つスコアボードだろう。俗に軍艦型と呼ばれ、スコアボードの形を見ただけで野球ファンは「あ、甲子園だ」とすぐにわかってしまう。これほど個性的なスコアボードもそうはない。

このスコアボード、実は1924年(大正13年)の甲子園完成時にはまだなかった。間に合わなかったのである。そのため、木造で仮設のスコアボードが設置された。

延長25回の激闘!その際にスコアボードが採った措置は?

翌年、正式なスコアボードが完成した。と言っても現在の物とはかなり違っていて、右中間に細長く造られた物だった。得点表示は16回まで。これが思わぬ伝説を生む。

1933年(昭和8年)夏、中等野球(現在の高校野球)大会の準決勝で中京商×明石中の一戦が行われた。優勝候補同士の対決とあって大熱戦となり、延長16回を終えた時点で0-0。現在は延長15回で打ち切り、再試合となるが、当時は決着が着くまで試合は行われた。

では、17回以降の得点表示はどうする?現在なら1回の所に合計点を表示して、7回の所を17回として数字を入れていく、という方法を採るだろうが、当時はそんな知恵はなかったらしい。

なんと、大工さんが板に数字を書いて、16回の隣りにその板を継ぎ足していったのである。大工さんが書く数字は、17回以降もずっと0。しかし、16回までは綺麗な0が32個並んでいたのに、17回以降は0の形がバラバラ。手で書いているのだから仕方がない。25回裏にようやく1の数字が入ったが、熱戦と共にこのスコアボードは未だに語り草となっている。

遠隔操作ができる、超近代的スコアボードが完成

そこで翌1934年(昭和9年)、二代目スコアボードが完成した。それが現在と同じ軍艦型の巨大なスコアボードである。それまでの右中間からセンターへ移されたのも現在と同じ、向かって右側に得点板、左側に選手名というスタイルも現在と同じである。

しかも、このスコアボードは遠隔操作ができた。電光掲示板全盛の現在では遠隔操作は当たり前だが、パネル式の当時で遠隔操作はまさしく画期的だった。水洗トイレや温水プールがあった当時の甲子園、まさしく時代の最先端を行く超ハイテク球場だったのである。

ナイター設備が完成して、スコアボードは退化!?

戦後になり、サラリーマンが仕事を終えた夜にプロ野球見物を楽しむというナイトゲームの時代となった。甲子園も例外ではなく、1956年(昭和31年)にナイター設備が完成した。しかし、そこには大きな問題があった。

遠隔操作するスコアボードは、雨による電気系統の故障を防ぐためにガラス板が取り付けられていたが、カクテル光線を浴びると反射してプレーにも影響が出てしまう。やむなくガラス板を外し、甲子園のスコアボードは手動になってしまった。言わば時代に逆光ならぬ逆行したのである。

筆者の思い入れが強いのが、この手動式スコアボードである。プロ野球の場合は選手名が印刷されていたが、高校野球の選手名とチーム名はみんな手書き。職人さんが白いペンキで一枚一枚書いていたのだ。雨が降ってきてスコアボードが濡れると、選手名やチーム名は消えてしまった。それがなんとも言えない情緒を醸し出していたのである。

甲子園のスコアボードも電光掲示板に

しかし時代の流れからか、1984年(昭和59年)に、甲子園のスコアボードも遂に電光掲示板となる。この時、甲子園愛好家からは反対の声が沸き起こった。筆者も反対していたクチである。伝統ある甲子園のスコアボードを、味気ない電光掲示板なんかにしてくれるな。それが反対派の意見だった。

だが、電光掲示板化はいい意味で裏切られた。他球場の電光掲示板は黄色にゴシック体という素っ気ないものだったが、甲子園は初めて白色ブラウン管を採用。さらに字体も明朝体としたのである。つまり「黒板にチョーク」という甲子園のイメージは守られた。スコアボードはさらに巨大になったものの、軍艦型の形はそのままだ。

その後、基本コンセプトは同じだがスコアボードはさらに改良を加えられ、現在は左右に分かれてフリーボードとなり、LEDカラー表示の映像も可能という、時代の最先端を行っている。伝統を守りつつハイテク技術を駆使するという、甲子園のポリシーを体現したのがスコアボードと言っても過言ではない。

昨年春のセンバツ決勝戦より。向かって右が得点板、左が選手名という配置は変わらないが、両方共フリーボードとなっており、カラー映像も可能だ

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