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川中島の戦い。一騎討ちはファンタジーの領域

戦国時代の合戦でも屈指の認知度であろう川中島の戦い。一般的に5回戦まであったと言われますが一騎討ちで有名な第4次以外は小競り合い程度です。しかも一騎打ちは無かった可能性が高いと言われています。

甲陽軍艦の立ち位置

甲陽軍艦というものすごく長い軍学書があります。高坂昌信の遺した記録などをもとに、江戸初期の軍学者小幡景憲によってまとめられたとか、昌信になりきった景憲が書いたとか言われますがはっきりしません。

甲陽軍艦は軍法やら武士道やらを学べるように編纂されたもので、そもそも史実を正確に遺そうなんてものではないとのこと。史実と創作とを入れ混ぜた軍記物、読み物なので信憑性の有無は記述ごとに論じるべきなようです。

壮絶!川中島の戦い

よく知られた川中島の一騎打ちは甲陽軍艦にみられるものです。いろいろ不自然だったり他の史料で裏付けできなかったりで、この話は創作の可能性が高いといわれます。以下にざっくり流れを書きますが、ご存じの方も多いでしょう。

謙信は西条山(妻女山)に布陣、信玄は海津城に入ります。山本勘介の進言を受けた信玄はキツツキ戦法を実行することを決意。これは妻女山にいる上杉軍のもとへ別働隊を向かわせ奇襲、あわてて下りてきたところを本隊で待ち受け挟み撃ちにしよう大作戦です。

しかし謙信は海津城から上がる炊事の煙が多いことから奇襲作戦に気付き(すごいな)、武田の別働隊が着く前に山を下りてしまいます。そして武田本隊へ半ば逆奇襲をかける形に。別働隊を本隊に見せかけるため、そちらに人員を多く割いてしまったゆえ武田本隊は上杉軍にボコボコにされていきます。

信玄の弟信繁は敵に突っ込み壮絶な討ち死にを遂げます。勘介もキツツキ失敗の責任を取るべく奮戦して果てたのです。そんな中、一騎の武者が信玄のもとへ突っ込んできます。

単騎で乗り入れてきた武者は信玄に3度斬りつけ、それを信玄は軍配で受け止めます。どういうわけか軍配には傷が7つ付いたとのこと。その時、旗本のひとりが騎馬武者を槍で突こうとして馬に当ててしまったので馬はびっくり、そのまま武者を乗っけて走り去ります。この武者こそ謙信だったのです。

そして山を登って下りるというただの登山を終えた別働隊が合流、形勢は武田に傾きます。押され始めた上杉軍は引き上げ、戦は終わりました。結局勝敗はよく分からず、互いに勝ったぜと喧伝します。

実際どうだったかはよくわからない

霧の中を動いていた上杉軍と武田軍が鉢合わせ、戦闘に移ったという説もあります。奇遇ですね。海津城から妻女山までは距離もあり、一万越えの軍が気付かれずに奇襲するのは難しいようです。

車懸りの陣は無理らしい

謙信は川中島で車懸りの陣を使用したと甲陽軍艦にはあります。車懸りの陣とはぐるぐる回りながら突撃するという攻撃法です。敵は常に新手と戦うことになるといいますが、無駄に走りまわるとかえって疲れそうなので新手だろうが元気ではなさそうな気もします。

一騎討ちはしていない?

謙信自身も刀を振るって戦ったという話が一騎打ちにまで発展したとも言われます。大将が敵陣に単騎で突っ込むというのもなかなか考えにくい話です。川中島の戦い自体は本当ですし、武田信繁の討ち死にも真実です。ただ、細部についてはよくわかっていないというのが現状なのです。

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