「あなたの神様は何ですか?」海外で良く聞かれるこの質問に、あなたは?その一
海外で良くされる質問に「宗教」がある。あなたはこの質問になんと答えるだろうか?答えに困る事もあるが、無宗教という回答は、宗教を信じる人に懐疑感を与える。では、どうするか?また、日本人は本当に無宗教なのか?日本人の宗教観の根元とは一体どういうものであるか?を少し考えてみる。
あなたの宗教はなんですか?
海外へ出張などで仕事をした方なら、必ず何度か質問された経験がある事に「宗教」がある。最近は、減ってきたようにも感じるが、何かの時にはやはり聞かれるケースがある。この質問にすんなり答えられる人もいるが、たいていの人は答えに窮する。
その理由は日本人にとって、意表をついた質問だからではないかと言う気がする。もちろん 海外の人とほぼ同じ感覚の宗教をやっている方もいるだろうから、一般的にはと言う話である。最近では、聞かれる可能性もある質問なので、あらかじめ答えを用意している人もいる。
あなたの答えは?
さて あなたならどう答えるだろうか?まあ 仏教徒でも答えておけば問題はないのだが、そこはまじめ気質の日本人であるので、真剣に考えて答えに詰まる人もいる。
最近 私は「ナチュラリストである。」と、答えてみた。実に旨いと自分で思ったが、実のところナチュラリストの概念も自分の中では曖昧なのだが、妙に納得してもらい(本当は納得していないと思うだが)追加質問はなかったので、まあ良かったのかと思っている。
何故宗教を聞かれるのか?宗教を確認する理由。
日本人にとっては厄介な問題である。と、言うのも日本人は日頃宗教など意識しない生活している為であるが、海外では事情が違う。私は日本人なので、想像でしかないのだが、きっと宗教を聞くことは、たくさんの情報を得る方法であるように思う。
・相手に失礼にないようにすると言う事
・無用な争いや問題を避ける。
・自分を何々に属しており、自分の事を相手に伝える。
など、他宗教が混ざり合う地区に関しては、宗教的な禁止事項もあるので相手がどの宗教に属していて、何をしてはいけないのかを知るのは非常に重要である。
例えば、宗教的に食べることを禁止されている動物の料理(豚や牛)などを出すと言う事は、仕事上だけの問題では済まされない。また自分が何者であるかを、アピールするのにも使われているように感じるときもある。
例えば、「俺は敬虔なクリスチャンだ!」そう自分の事を紹介された時、相手が多少 強面のおじさんでも、真剣に十字を切っているのを見せられると安心するところもあるし、自己顕示でもあるように見える。
また自分と他宗教や他派であれば、それに合わせて話もできるが、知らないと相手に失礼な言動を自然としてしまうかもしれない。(時には、対立している場合もあるので)
宗教にこだわり少ない日本の社会と特殊な対応
日本人は宗教に対するそういった繊細な感覚はほとんどないといってもいいと思う。それは日本人の置かれた環境もあるのだと思う。比較的、色々なものが交じり合っていないと言う日本の特徴は宗教にも言えるし、敢えて違うかも知れない事や会話が会わない、意見が違う事を話として出さない。という事もあると思う。
外国の場合、それはしっかりと確認して問題が起きないようにするが、日本人はそれそのものに触れないと言う特徴があるのだと思う。
日本人は基本的に、宗教やその人の信仰と世間的な会話を切り離している。これはよく言えば、曖昧にふわりと何でも受け入れる。と、言えるが、悪く言えば、表面的な会話をしているだけで相手の本当の核心には触れない、もしくは知る気がないとも言える。
とり方によっては、冷たいとも感じるし、裾野が広い、なんでも受け入れるとも取れるのが日本人の会話の基本にある。
またこんな事も言える。他の国の人にとって、宗教とは生きるうえで、意識の上でも非常に大切なものであるし、宗教そのものに依存しているとも言える。その人の人生や人格の一部のような密接な関係である。ところが日本人にとって、宗教とは非常に曖昧な部分が多い。
日本人は無宗教であるか?
宗教と言うものを私たちはあまり意識していない。が、無宗教であるかというと、そうとも言えない。何故なら、死んだときにお墓に入るときはお寺である。つまり仏教儀式に則っている。正月に御参りに行くのは、神社でありこれは日本の神様である。
七五三なども神式であるし、お祭りもほとんどの場合、神社系である。本来 日本は仏教徒と神教徒が半々程度であったといわれている。何故、今の日本には宗教が見えないのか?
上に挙げた例は、いずれも宗教というよりは、意識上、慣習といった感覚に近いのではないかと思う。これらの宗教儀式をやっていると言う事は、本来無宗教とは言えない。
しかし問題なのは、神式と仏式の両方を行う為、どちらかの宗教であるのか非常に曖昧であるし、これらの慣習の上にあっても、さらに新興宗教に属している人もいる。これは海外の宗教では、絶対にありえないことである。