1555年厳島の戦い。雨天決行!毛利元就の奇襲大作戦
奇襲戦として名高い厳島の戦い。毛利元就の智将っぷりを見ることができます。とはいえ定説は毛利方の記した『陰徳太平記』によるところが大きいため元就さん贔屓な仕様のようです。
陶晴賢の謀反
元就は大内氏の傘下にいました。しかしその大内の当主、義隆は尼子との戦に敗れたあげく養嗣子を失ったことでテンションが下がりやる気なし。茶会など風流なことに没頭します。代わりに相良武任(さがらたけとう)に政権を丸投げ。文治派な武任は武断派を冷遇し始めます。
そんなわけで武断派ひとり陶晴賢(すえはるかた)は謀反をもくろみます。元就さんも晴賢に協力を約束していたようです。そして晴賢の謀反は大成功。晴賢は大内氏の当主に晴英(大友宗麟の弟。義隆の姉の子らしい)を立てました。
晴賢の謀反は大寧寺の変と呼ばれ、本能寺の変に匹敵するほどの大事件だったであろうと言われる割には知名度が低い感が否めません。
元就と晴賢の確執
江田氏が尼子へと乗り換えたため、晴賢は元就に江田氏への攻撃を要請します。元就は江田方を敗走させ旗本山城を手に入れましたが、晴賢は元就の領地拡大を懸念して江良房栄(えらふさひで)を旗本山城主にしてしまいます。
後に今度は吉見氏が晴賢に反旗を翻したため晴賢は元就にも出撃を要請しますが、元就は晴賢との手切れに踏み切ります。これは元就の長男、隆元が勧めたとも言われます。
江良房栄の謀殺
元就は手始めに賢いと評判の房栄に寝返りを持ちかけます。すると房栄は「領地たくさんくれたら寝返ってもいいよ」と割に合わないほどの見返りを要求。それは無理だと思った元就は、房栄の内通が晴賢に知られるよう仕掛け、晴賢は房栄を殺してしまいます。さすが智将、臨機応変です。まあ一説に過ぎないのですが。
『陰徳太平記』では、房栄と元就の内通を窺わせる内容の手紙(偽物)を落とし、晴賢に見つかるよう仕向けたということになっています。元就の策略か晴賢の独断か、どうであれ房栄は殺害されてしまったのです。
厳島の戦い
元就の兵力は晴賢に劣っていたため、寡兵で勝つには狭い厳島に誘い込んでぎゅうぎゅうのところを討とうと作戦を練ります。元就は厳島を占拠、そして宮尾城を築くと、晴賢方に「宮尾城攻められたらまずいなー。失敗だったかなー」と悔んでいるような噂を流します。
さらに家臣の桂元澄に寝返ったふりをさせ、晴賢が厳島に攻め込むよう誘導したそうです。このあたりは話が出来過ぎているため真偽のほどはわかりません。そんなこんなで晴賢は厳島へ出陣します。一方、晴賢の厳島渡航を知った元就も出陣。暴風雨の中敢えて海を渡ることで、陶軍の虚を衝こうとします。
戦に臨むにあたって、元就も晴賢も村上水軍へ援軍を頼んでいました。しかし晴賢は合戦前、村上水軍に対し海上の通行料を徴収することを認めなかったため、村上水軍としては晴賢に不満があったようです。それもあってか村上水軍は元就に味方します。
元就は陶軍に奇襲を仕掛けます。混乱した陶軍は大軍なため身動きも統率も取れず逃げ始め、晴賢も海岸へと向かいますが船は水軍に沈められていて逃げられません。船を探して移動する晴賢ですが、やっぱりどこにも船はなく、観念して腹を切ります。これにて厳島の戦いは終結するのです。
そんなこんなで定説だと元就の策に晴賢がまんまと引っ掛かったということになっていますが、『陰徳太平記』は軍記のようなものでおそらく話は盛られているでしょう。