血に染まる姉川。織田徳川連合軍対浅井朝倉連合軍
織田信長とその義弟、浅井長政が正面から対峙した姉川の戦い。信長は徳川家康と、長政は朝倉景健との共同戦線で、激戦になったといいます。
織田信長の妹さん、お市の方は浅井長政に嫁いでいました。政略結婚とはいえ、二人はとても仲良しだったようです。しかし信長が朝倉に攻め込んだことで平穏にはしていられなくなります。
朝倉氏は浅井氏と友好関係にありました。長政は朝倉につくか信長につくかの二択に追い込まれた結果、義兄に反旗を翻すことを決めます。
金ヶ崎の退き口
朝倉を攻める信長のもとへ、長政離反の知らせが届きます。最初信長は嘘だろうと信じなかったものの、次々舞い込む知らせに受け入れざるを得ません。浅井と朝倉に挟まれる格好となった信長は是非に及ばずと退却を決め、木下藤吉郎(秀吉)や明智十兵衛(光秀)などの活躍もあって、からがら京まで逃れます。
姉川へ
気を取り直して近江へ向かう信長。自然の要害で守られた長政の居城、小谷城は攻めにくいため、その城下を焼き打ちしておびき出そうとしますが長政は籠って出てきません。そこで小谷の支城である横山城を攻め、その救援として長政を引っぱり出そうという作戦に切り替えます。
織田軍へ徳川軍が加わり、一方で城を出た長政は朝倉軍と大依山で合流。兵数は文書によって異なっていてはっきりしません。一説から浅井5千、朝倉8千、織田2万、徳川5千としておきます。その後、浅井朝倉軍は大依山の陣を払って退却したと見せかけて姉川へと出陣します。
この引っかけにちょっと引っかかった織田方は対応が遅れることに。1570年6月28日未明、浅井朝倉軍は野村と三田村に分かれて布陣。徳川軍は三田村、織田軍は野村勢にあたります。ちなみに当時は姉川合戦を「三田村合戦」や「野村合戦」と呼んでいたようです。そして午前6時頃、戦は始まります。
姉川を越え、押しつ押されつ入り乱れてしのぎを削る混戦に。浅井側の猛攻で織田軍は十三段の構えの十一段ほどまで崩されたという説もあります。そこへ徳川の別働隊が横から攻めかかったことで敵方は崩れ、持ち直した織田軍も反撃に転じて勝利となります。
とはいえ十三段の構えは浅井側の退却するふりに騙された織田軍がわたわたと移動したため隊列が間延びしてしまっただけとも言われています。徳川軍の大活躍も家康よいしょの疑いがあるとか無いとか。
姉川一帯は血染めとなるほどの激戦だったようで、血原や血川といった地名を残しています。信長は浅井勢に追撃をかけ小谷の山麓を焼き打ちしますが、小谷城攻めまでは流石に無理と追撃を止めます。小谷城の落城はこれより3年後となります。