京都大学がアメフトで強豪私大を次々と粉砕!最強伝説の80年代
数々のノーベル賞受賞者や、クイズ王のロザン宇治原を輩出した京都大学。そんな京大が今秋の関西学生野球で注目を集めた。立命館大学戦で京大の田中英祐投手が延長21回を投げ抜き、0点で抑えたのである(0-0の引き分け)。田中はMAX148km/hの速球が武器の三年生。来年のドラフトで京大出身のプロ野球選手が誕生するかも知れない。
しかし、チームは26季連続最下位。東京六大学野球の東京大学と同じように最下位の常連である。スポーツ推薦がある筑波大学以外、国立大学はスポーツオンチというのが定番だ。
だがそんな京大にも、1980年代は日本最強と言われるクラブがあった。アメリカン・フットボール部である。
メキメキと頭角を現した70年代後半
京大のアメフト部はギャングスターズという愛称が付いている。70年代から80年代にかけて、関西では関西学院大学ファイターズ、関東では日本大学フェニックスが圧倒的な強さを誇っていた。この両校が毎年のように甲子園ボウル(東西大学王座決定戦)でぶつかり、日本一を争っていた。
そんな中、京大の監督に就任したのが水野弥一である。水野は打倒・関学を目標に掲げ、チーム力を大幅にアップして関学に肉薄した。そして76年には初めて関学を破り、関学の関西リーグ戦連勝記録を145でストップさせる。しかしプレーオフで関学に敗れ、甲子園ボウル出場はならなかった。
遂に甲子園ボウル出場!しかしそこに立ちはだかる日大の壁
しかし82年、京大は遂に関学の関西リーグ連覇記録を「34」で阻止する。全勝対決で迎えた関学戦で17-7の勝利。遂に初の甲子園ボウル出場を果たした。念願だった打倒・関学の夢を、遂に実現させたのである。
ところが、甲子園では関東の雄・日大の厚い壁が大きく立ちはだかっていた。当時の日大は泣く子も黙る「日大ショットガン(パス主体の攻撃)」を武器に甲子園ボウル4連覇中。ここ数年は関学ですら全く歯が立たない状態だった。
京大は当時最強の日大にぶつかっていった。だが、あえなく玉砕。28-65の完敗で、日本一の道のりはまだまだ遠かった。
黄金時代の到来
翌83年、再び全勝対決となった関学戦を僅差で勝利、2年連続甲子園ボウル出場となった。相手はもちろん、6連覇を狙う日大。しかし、打倒関学一本だった前年と違い、今度は日大ショットガンを徹底的に研究した。果たして、技の日大をパワーで粉砕し、30-14で初の大学日本一に輝いた。
さらに、この年度から日本選手権となったライスボウル(前年度までは東西学生オールスター戦だった)では社会人王者のレナウン・ローバーズを破り、初代日本一となる。関学、日大、レナウンと、当時の日本アメフトではショットガンが全盛だったのに対し、京大はパワーでショットガン攻撃を封じたのである。
その後2年間は関学の巻き返しに遭ったが、86年は再び関西リーグ、甲子園ボウル、ライスボウルを制し、2度目の日本一となった。さらに翌年も2年連続日本一となり、京大は黄金時代を迎える。
特に猛威をふるったのが天才クォーターバック(QB)東海辰弥である。東海を中心とした当時の京大は「日本史上最強チーム」と謳われた。東海は紛れもなく、日本アメフト史上に残る名QBである。
そんな東海にもライバルがいた。1歳年上で関学のQB芝川龍平である。「ショットガンの申し子」と呼ばれた芝川は次々とピンポイントのロングパスを決めた。東海に「芝川さんのパスには絶対に敵わない」と言わしめた。
この頃の関学と京大のライバル関係は関西でのアメフト人気を沸騰させ、関東での野球の早慶戦やラグビーの早明戦と並び、関京戦は関西における大学スポーツの象徴的存在となった。京大の水野監督も「ウチの選手は関京戦が一番緊張する。その後、甲子園ボウル、ライスボウルと続いていくと、だんだん緊張がほぐれてくる」と語っていた。京大にとって最大のライバルは日大や社会人チームではなく、あくまでも関学だったのである。
ギャングスターズ復活なるか?
90年代に入っても京大は甲子園ボウルを三度、ライスボウルを一度、制覇している。しかし96年の甲子園ボウル優勝を最後に、関西リーグすら優勝できない状態が続いている。理由は関学以外にも立命館大学パンサーズや関西大学カイザースなど、アメフトに力を入れる私立大が関西にも増えてきたからだ。こうなると、国立大の京大には大きなハンディとなる。
だが、京大は弱くなったわけではない。優勝できないとはいえ、今でも関西の強豪大学である。
メジャーな大学スポーツの中で、西高東低なのはアメフトだけだ。京大はその中核を担っている。もう一度、関西の「ギャングスター」となって関西リーグを制覇し、甲子園ボウルでは東日本学生代表を、ライスボウルでは社会人王者を破って日本一になって欲しいものだ。