やせ我慢できる男とできない男の違いを知って、魅力ある男になろう!
武士は食わねど高楊枝、と言います。「やせ我慢」というものは、普通の我慢とは一味違う意味合いを持っており、自分で選ぶ我慢である点、人間のプライドを育て上げる道筋と深いかかわりを持つものです。
「男伊達」という観点から、男性特有の「やせ我慢」のあるべき姿にメスを入れてみましょう。チャラチャラしたヤワな男どもの反省材料に、多少ともなってくれれば幸いです。
強烈なブレーキがあってこそ理想が生まれる
孟子は「為さざるあり、しかる後、以て為すあるべし」と言っています。どういうことかと言えば、「自分はこれこれこういうことは絶対にしない、という自制心があってこそ、初めて本当に自分のなすべきことが見えてくる」という意味合いです。いい言葉ですね。
何でもござれで、したい放題にしているような人間では、本当に自分のなすべきことは見出せなくなってしまうということです。強いブレーキがあって、初めて自動車も思い切り走り出せます。人間も心に強靭な「たが」をはめられなければ、高い志操を持って自信に満ちた行動は起こせないのです。緩んだ心には理想は宿りません。
何を尊び何を捨てるかで人間が決まる
美意識の強烈な人であれば、自分が「美」であると信じたものを守るためであれば、何でもするでしょう。あるいは非常にプライドの高い人であれば、その体面を維持するためとなれば、火の中にでも敢えて飛び込むかもしれません。
このように、2つの価値の片方を取り、片方を我慢することで人々の日常は成り立っているとも言えます。何を取り、何を我慢するかということで、その人の人格、生き方が決まってくるわけです。わずかな金銭欲しさから、道徳を捨て誇りを捨て家族までも捨てて、人生の裏街道に落ちていく人々も少なくはありません。
我慢することは、快いという話
人は、適度の「自虐」を喜ぶものです。それは、我慢できることを我慢することは、快いことだからです。子供が内心では怖いと思っているものを、手でつかんで友達に見せつけ、自分の度胸を誇ろうとするのもその一例です。自分はこんな我慢ができるぞと言って、その強さを見せびらかしているのです。
大人だって、それと同じようなことを毎日しています。自虐に近い「修行」や「特訓」を目にすることはザラでしょう。一面において、人はすべてマゾヒストだと言っても過言ではないかもしれません。
人は損をするためにも我慢をする
単なる我慢なら、動物だってしています。餌がなければ、空腹を我慢します。寒いときには、寒さをじっと耐えています。けれども「やせ我慢」をするのは、人間だけです。
「やせ我慢」を定義したらどうなるでしょう。やせ我慢とは、はたから見たら「むだな我慢」のことです。ひどい仕打ちを受けて、辛かったら泣けばいいのにじっと我慢している。逆に笑っている。なぜか突っ張って人知れず頑張っている。
例えば、相手に頭を下げればすぐに済むことなのに、意地を貫いて頭を下げずそのために大きな損をしている。気持ちを曲げれば楽になれるのに、なぜか苦しい道を自分で選んで楽な道を行かず、自分だけの世界をかたくなに守っている。
得をするための我慢ならば誰でもします。でも損をするための我慢はなかなかできませんよね。それなのに、はたから見れば明らかに損をする立場に身を置いて、いつまでも「やせ我慢」している。
やせ我慢の形はさまざま
純な青年を見ていると、こんなことがよくあります。好きな子がいるのに、打ち明けたいけど打ち明けず、わざと邪険にしたりして、そのうちに相手の女の子がニヤケた野郎に誘われてついて行くのを、歯噛みしながら見送っている。握りこぶしを震わせながら、でも決して追いかけたりはしない。その「やせ我慢」こそが青春の一要素でしょう。
売れる絵を描けばいいのに描かず、俺は芸術家だ、俺の才能を理解しない世間のほうが悪いとうそぶき、その心の裏側では貧乏な妻子に手を合わせて詫びながら、借金だらけなのに芸術のために浪費している。
いくら才能が不足していても、その自負心は絶対に捨てない。はたから何と言われようとも、よい意味の自惚れにすがりついて笑っている。賞が欲しくても全然欲しがったりしない。もてはやされている友を見ても、妬むことなんてこれっぽっちもない。
よいやせ我慢が「男」をつくる
男のやせ我慢。これはひとつの美学かもしれません。損をするための我慢です。その格好の悪さが、胸にジンときます。ある意味で裏返しになった「男伊達」ではないでしょうか。人のための自己犠牲とも違います。独自の「こだわり」のために、損を承知で我が道を行くのです。
実はこれこそが「武士は食わねど高楊枝」です。喉から手の出る物でも、敢えて辞退する勇気。よい「やせ我慢」をいくつしているかで「男」が決まるとも言えます。オノオノガタ、どんな「やせ我慢」していますか?