正直に生きること、それが人生の幸せへの近道です
正直に生きるには、勇気が必要です。人は「自分をよく見せたい」「都合の悪いことからは逃げたい・隠したい」と思うのが一般的です。
しかし、その場しのぎで都合の悪いことから逃げると、どこかでつじつまが合わなくなり、嘘が必要になるものです。そしてそれがばれた時は、信用を失うような大きなことになりかねません。
どうせ失うなら、小さい方がいいでしょう。失うものも少なく、やり直しも簡単なのです。ちょっとした勇気で人生を幸せなものにできるのですよ。
自分を騙すと幸せにはなれない!
人は、人を騙すことはできても自分を騙すことはできないのです。そして自分に後ろめたさを感じていたら、その後ろめたさを隠すために嘘を重ねてしまうでしょう。
嘘をつくとその嘘がばれないようにまた嘘をつかねばなりません。そのうちにどれが自分の本当の心かわからなくなってしまうだけでなく、自分のついた嘘も忘れてしまってつじつまの合わないことが起こり、最終的には嘘もばれて信用だけでなくその他多くの物を失ってしまうのです。
つまり嘘をついていると心から幸せになれないのです。正直でいることが一番楽に生きることになるのです。だから腹をくくりましょう。失うものもあるかもしれません。何を失ったとしても、自分に一番大切な信念と誇りだけが残ります。
『八重の桜』36回「同士の誓い」(9月8日22時NHK放送)で、自分の心に正直に生きた八重の信念がまさに幸せを呼んだという場面がありました。主人公の八重の生き方がまさに「正直に生きる」というものそのものだと思いました。その信念と誇りは、少々時間はかかったとしても必ず周りが認めてくれるものなのです。そして周りから幸せも寄って来るのです。
八重のジャンヌダルクのような自分の信念を貫く生き方を見習って、勇気を持って正直に生きましょう。自分に正直に生きるということは、自分の望む幸せの道を進む近道なのです。
『八重の桜』36回「同士の誓い」にての八重の選択
時は明治8年、宣教師である新島襄が八重のプロポーズを承諾して八重は婚約します。耶蘇教(キリスト教)の宣教師と婚約したということで、京都の女紅場解雇の通達が出ます。
しかし京都の実権を左右することができる当時京都府大参事の牧村から、もし女紅場を解雇されたくなければ、「宣教師と結婚しても自分は耶蘇教の信者にはならない」と誓うようにと要求されます。牧村は「本心でなく『たてまえ』でいいから」と言うのです。
八重は「女紅場は辞めたくない」「新島襄と結婚したい」「旦那様の信じることを否定できない」という思いに迷いながら、迷った挙句、それでも「『夫となる人が信じるものを否定する』という心に背く行動を取ることはできない」と、女紅場を辞める決心をします。
それでも、最後に辞めさせられるのではなく自分から辞めるのだと「信じる道を進むように!」と生徒達に伝えようとしますが、余計なことを話させまいと追い出されるように女紅場から連れだされてしまいます。
しかし生徒達は、八重の気持ちを理解し、新島襄が教えた賛美歌を歌って八重を送りだしてくれます。政府がいくら反対しても、女紅場の生徒達には、八重の生き方や教えは受け入れられたのです。
そして八重は、女紅場を辞めてきたことを“Good newsです。これから学校の手伝いに専念できます!”と元気に新島襄に告げるのです。前向きに自分の信じた道を後悔しない勇気と潔さは感服です。
新島襄も、様々な困難を乗り越えて、「同志社英語学校」を開校します。そして八重は正式に洗礼を受け、日本で初めてのキリスト教式の結婚式を堂々と挙げます。
女紅場解雇の通達が出た時、もし八重が牧村の言う『たてまえ』を受け入れていたら、その『たてまえ』のために夫の協力は「表向き」できなくなります。「表向き」でも事実上夫の仕事に対立することになるのです。
さらに女紅場の先生である以上「『たてまえ』で嘘をついている」という事実を教育上隠すことも必要になります。生徒達にも嘘をつき、自分にも嘘をつき、旦那様を裏切っているという後ろめたさから心を痛めることになります。自分に嘘をついている以上、洗礼も耶蘇教式結婚式も挙げることは不可能です。
そのうち、生徒達にも後ろめたくて自ら女紅場を辞めてしまうこととなるでしょう。どうせ辞めるなら、初めから正々堂々と正直に生徒達も裏切らずにいた方が正解です。夫を裏切っているという後ろめたさから、新島襄との結婚も続かないかもしれません。だから、八重の選択は正しかったのです。
結局、八重は自分の心に従った選択は正しかったのです。正々堂々と正直に生徒達に気持ちを伝えて自ら女紅場を辞めて、その後同志社英学校で夫の手伝いをし、新島襄の妻として心に一点の曇りもなく洗礼を受けることもできました。そして幸せに新島襄と日本初の耶蘇教式結婚式も挙げられたのです。