備えあれば憂い無しの生き方で、心にゆとりを持たせる処世術
何事も準備を万全にしておけば、こなせない事はありません。どれだけ難しいと思える課題でも、どれだけ不可能だと躊躇してしまう難題でも、準備さえ怠らなければどんな事でもまず間違いなくクリア出来ます。
今日は備えあれば憂い無しの生き方で、心にゆとりを持たせる処世術についてお話ししようと思います。どうぞ最後までおつきあいいただき、すばらしい人生を歩まれてください。それではじめます。
準備の真意を知る
わたしは、普通よりもかなり心配性なので、不安や恐怖感が大きく、ひどいときには、何も手につかなくなるほどです。ほとんどの人はこれが理解出来ないので、もう説明しようとも思いませんし、理解してもらおうとも思いません。本当に理解出来ているのは、わたしの親友達と母親と恋人くらいのものですね。
これだけでも理解者がいるので十分だとは思うのですが、中には理解者に恵まれず、ひとりで苦しんでいる人もいると思うのです。わたしも昔はそうでしたから、その気持ちや苦しみはよくわかります。理解者がいる人とゆうのは、基本的に動く事が出来ます。
仮に動いて傷ついても、彼等が守ってくれるため、なんとかかんとか持ちこたえる事が出来るわけですね。ただ、理解者がいないという状況であれば、自分だけがたよりになるので、予想する不安が実現しないように行動していかないといけないわけです。
そのためにはやはり万全の準備をして、行動しなければなりません。最悪の事態を想定して、その事態が起きないように最大限努力しなければいけません。その事態を起こさないためにまったく動かないというのは、最悪の中の最悪の行為なので、絶対にダメです。
動かないという事は、何も生み出さないという事であり、生きて行く事が出来ません。人は動かないと死にます。働くという漢字が人が動くと書かれているように、人は目的のために働かないと死んでしまうのです。
事実、親が生きている間は、親が守ってくれるかもしれませんが、ひとりになってしまったら、ひとりで生きて行く事は不可能です。
国も、周囲の人も守ってはくれません。最終的には誰も助けてはくれなくなります。みんな自分の事だけで手一杯ですし、何もしないで生きて行けるほど世の中はあまくありませんから、結局働かないとお金がなくなって餓死するだけです。厳密には、日本で餓死するのは難しいかもしれません。
ホームレスとして生きて行く事は可能ですからね。なので、生きて行く事は出来ますが、病気になれば終わりますし、寿命まで生きれても、決して幸せな人生だとは言えないでしょう。つまり動かない限りは生きて行く事は出来ないと考えた方が良いでしょう。
わたしも、若かりし頃、自暴自棄になり、ホームレスというか、寝袋とバックパックを背負って、放浪して、死にたくなったら人里は慣れた場所で土に帰ろうなどと考えた事もありますが、結局は行動に移す事は出来ませんでした。やはり、それよりも生きたいという本能が勝ってしまったのと、幸せになりたいという気持ちがどこかしらあるからだと思います。
準備をするというのは、この死というがゴールだとして、それまでの物語を生きるために必要なエッセンスだと思っておいてください。準備なんて面倒くさいよと思っている人達が多いと思いますが、準備なしに出来る事などなにもありません。
準備が万全なら、心に余裕が出来てくる
準備を怠らずに生きていると、かなり心に余裕ができて来て、いろんな事をなんなくこなせるようになります。
わたしはつい先日10キロマラソンを走ったのですが、確かに10キロ程度なら、誰でも走れる距離ではあります。ただ、準備をしておかないと、まったく運動してなかった人がいきなり10キロ走ると、次の日動けないほどの筋肉痛とまたずれでかなり辛い思いをします。
わたしは週3で15キロ〜20キロくらい走っていたので、本番の10キロはかなり楽に余裕を持って走る事が出来ました。普通の人なら、5キロくらい走っておけば、本番の10キロも楽にいけると思うのですが、わたしはちょっと過剰に心配性だったり、本番に弱かったりするため、このくらい大げさに練習を積んでおいた方が、本番では良い結果を残せるようです。
逆に言えば、これがわたしの限界なのかもしれません。フルマラソンを走ろうとしたら、理屈で考えれば週3で120キロ走れる体力を養わなければ、本番に臨めない事になります。実際にはここまでする必要はないのでしょうが、慎重な性格から、かなり走り込まないと達成は難しいと思います。
現実的にそれだけの距離を練習として走るのは難しいですからね。それかわたしが本番に強くなる方法を見つけて、毎日20キロくらいの練習で42キロを走り切るタフなメンタルを養うかでしょうね。