あなたはどう考えますか?リビング・ウィルの意味とその問題点~前編~
厚生労働省の調査で終末期の治療についてアンケートを取りました。食べられなくなったら終末治療をしないでほしいと思う人が7割を超えているのだそうです。高齢化社会と高度先進医療の結果、加齢による衰弱死「平穏死」という選択も医学界でも推奨されてきたそうです。
高度先進医療で無理やり生かす事も出来る現在、天寿を越えて生きるのは、患者さんにとっては苦しい事もあるのです。そういった医療現場の現状から、最近は「リビング・ウィル」という自分の意思を事前に書面にしておく方法が生まれました。
「リビング・ウィル」とは、終末医療に入った場合、どの時点で治療を停止するのか自分で意思表示をしておくのです。「リビング・ウィル」を作成する事について賛成意見は多いのですが、終末期の年齢になってそのことが出来るかというと、実際に作成している人は少ないそうです。
あなたは「リビング・ウィル」についてどう思いますか?本人と医師と家族との信頼と告知問題をあわせて終末期の過ごし方や平穏死について検討したいと思います。
「リビング・ウィル」とは?
「リビング・ウィル」とは、‘living will’で、世界一権威のあるオックスフォード英語辞典によると「重病になり自分自身では判断出来なくなる場合に、治療に関して述べておく書類、特に医師達に治療を中止し死ぬにまかせてくれるよう依頼する書類」となっています。
つまり、終末期の医療等について積極的な治療をどの段階でやめるかといった意思表明について記した書類のことです。自分が「死」を何処の時点においているかという思いを伝える書類でもあるのです。
だから尊厳死の希望だけでなく、稀ではあると思いますが、医療の限りを尽くし、どんなに苦しんでも可能な限りの延命治療をしてほしいというような、自分を罰するような意思表明も可能なのです。
「リビング・ウィル」の「リビング」のラインを決める
高度先進医療が進み、現在では脳死状態でも人工呼吸でどこまでも衰弱しきってしまうまで生かす事が出来ます。でも、脳死になったら何も感じず何も考える事が出来ないのですから、生きているとはいえないと私は思います。
でも、口からものを食べられなくなった時点ではどうでしょう。点滴だけの栄養補給だと筋肉がどんどん衰弱していって弱っていくのみだそうです。でもまだ意識はあります。
また病状から口からの食事が危険を伴うようになった場合「胃ろう」といって内視鏡を使って腹部からチューブを胃の内部に通し、お腹に小さなチューブの口を作る手術をします。このチューブから栄養を直接胃に流し込むのです。この結果、医学的には患者さんの苦痛は減り介護が楽になります。
でも、昨日まで口から食事をされていた方が、ロボットのエネルギー注入のように胃に栄養分を流し込む事を果たしてどう思うかは疑問です。誤嚥等苦痛が無くなる代わりに食事の唯一の楽しみである「味」や「味覚」も無くなるのです。胃ろうをするなら衰弱しても点滴の方がいいと思うかもしれません。
私は、もう天寿を全うしたと思える年齢を過ぎたら無理に延命するのでは無く尊厳死を望みます。さまざまな医療器具の挿入で体の機能を人口化してまで生きたくはありません。そして意識がある間は私の意思を尊重してもらいたいと思います。分からない間に手術されていたというのだけは嫌ですね。
「リビング・ウィル」の「リビング」の状態がどこかを自分で決める事が重要です。でも医療について素人の人間が、将来自分がどのような病気でその治療としてどのような状況になるのかは分からないので、病気になる前や意識のあるうちに書類として残しておくのは不可能に近いでしょう。
認知症になって口もきけなくなっている患者の腹部に「胃ろう」という小さな口を設けてまで延命する事を、延命至上主義の医師にとっては、当然の医師としての義務と考えているかもしれません。
もしかしたら胃ろうを作る事が患者本人にとって屈辱であるかもしれないと、延命至上主義の医師は想像さえしないかもしれないのです。主治医がこのような医師の場合、平穏死の選択肢を患者に示してくれないでしょう。それでも患者家族のほとんどは医師に従います。だからこそ、「リビング・ウィル」の必要性が叫ばれているのでしょう。
でも、自分が家族にとって大切な存在であればある程、家族の死を受け入れるのに時間が必要です。それなら家族のために家族が納得するまで生きていてあげるのも優しさのような気もします。もしかしたら「リビング・ウィル」の存在を必要と思っても実際それが作られる例は少ないとの事実はこういう親の気持ちもあるのかもしれません。