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日本男性の生き方のモデルは「サムライ」であることを再認識せよ

今の時代に「男はサムライたれ!」などと提唱すれば、今風のコンニャク野郎からは、時代錯誤だと嘲笑されるのかもしれません。でも、国民の何割かは、日本人が骨のないコンニャク国民になりつつあることを寂しい気持ちでながめていることも確かです。

サムライという言葉に滲ませて、古風なオヤジが伝えたい思いというのは複雑で、曰く言い難いものですが、少しでも表現してみたいと思い、次のように呟いてみました。

武士道の光は今も道を照らしている

日本人の道徳観念は、儒学もしくは武士道を全く理解しない者にとっては、永遠に封印された巻物の如く「謎」であるかもしれません。武士道というものの光は、江戸時代が終焉を迎えた後も、依然として日本の風土の中に生き続けています。現在もなお、私たち日本民族の道徳の道を密かに照らしているのです。

人の道は単純で馴染みやすいもの

近代社会は人間を複雑に織りなしていますが、道徳そのものは少しも複雑化する性質のものではありません。人の道に関しては、仏陀や孔子やキリストやプラトンが、既にして究極の道を示しています。

武士道は、あえて体系的哲学や合理的神学たるの装いを取っていません。否、そんな体裁を取る必要がないのです。それゆえ、日本人にとっては最も馴染みやすい生き方になっているのです。

知行合一と自然主義

宇宙の運行は道徳性を有せずとなす見解は、武士道の採らない見方です。ソクラテスあるいは王陽明の説く「知行合一」は、武士道と全く軌を一にするものだと言えます。

王陽明の良心無謬説や唯我論は、武士道の土台であり、その上に神道の単純明快なる自然主義が乗っかって、サムライの道ができ上がっていると見ることができます。

節義を伴った勇気

節義というものは、人の心の背骨です。才能や学問や身分や名声がいかほどあったとしても、節義がなければ世に有用の者たることはできません。金と権力をほしいままにできる不埒者くらい、始末に負えぬものはまたとないのです。

剛毅、不撓不屈、大胆、自若、勇気――これらはサムライの気質にふさわしいと言えます。でもこれらの徳も、節義が伴って初めて、武士道に適う人の道となり得るのです。粗暴はサムライの敵です。

一直線の人生観で生きる

羞恥心は、少年教育の最初の徳でありました。サムライの体面を汚さぬことは、魂を穢れなく成長させるための前提条件です。主君や親や目上の人の眼鏡に適うことが、未熟な者のまずのっとるべき基準であり目標です。例外はあるとしても、そのような一直線の人生観が尊ばれて、いたずらな形而上学的屁理屈は最も唾棄されました。

忠君の根底にあるのは「報恩」

藩政に対する奉公の大切さは、武士道の原点であり本質でもあります。君臣の在り方が重視され、忠君が倫理の土台でありました。そのことをもって現代人は、「封建的・非人間的」と断じようとするのかもしれませんが、藩を会社や組織に置き換えてみれば、いつの時代にも同じ環境はあるのです。基本にあるのは「報恩」という観点です。

魂が滅びそうな日本人

サムライ精神の対極にあるものは何でしょうか。自分さえよければ所属組織の迷惑など知らぬ存ぜぬ、テメエのことだけに我武者羅で、金の亡者、エゴの化け物、薄汚い無責任主義、自由主義のはき違え――等々。

そんな極端な人は少ないかもしれませんが、でも功利主義、快楽主義、唯物主義者の損得哲学が社会に蔓延して、魂の半分しか持てなくなった日本人をつくっている、とは言えるかもしれませんね。

男の生き方のモデルだ

サムライのイメージは、「武士に二言はない」と言って嘘をつかず、朴訥で、利得に走りません。潔癖さを尊び、疑われるようなことは決してしないものです。

道を曲がるときにも、斜めに歩いたりせず道路の真ん中で直角に曲がるように心がけていた、という話もあります。司馬遼太郎がどこかに書いていましたが、「日本の武士は、世界史の中でも稀に見る人間の芸術品だ」と指摘されています。

私たちの民族がかつて持っていた「男の生き方」の素晴らしいモデルとして、現代の男たちがこれを参考にしない手はないのではないでしょうか。

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