理不尽な経験をたくさんする事で、問題処理能力を高める方法
問題処理能力というのは世の中を生き抜く術であり処世術と呼ばれるものです。この力が高ければ高いほど、人生は生きやすくなり、楽な生活を送れるようになります。
今日は理不尽な経験をたくさんする事で、問題処理能力を高める方法についてお話しようと思います。どうぞ最後までおつきあいいただき、老後らく〜な人生を歩んでください。
絶望を体験する
出来ればこのような状態にまで陥りたくはないものですが、予防策はあります。闇の中にいると、闇に引きずり込まれて行きます。これは、底なし沼に足を踏み入れると、どんどん抜け出せなくなっていくのと物理的に同じ事です。なので、あがかないとそのまま死にます。
しかしながら、間違ったあがきかたをしてしまうと、どんどん沈んで更に状態は悪化し、悲惨な結果になっていきますから、その点を気をつけないといけません。つまりあがき方を学ぶ事です。正しくあがけば闇から抜け出す事は出来ますが、逆にやり方を間違うと確実にアウトです。
絶望という状態を体験する事は、おそらく人生にそう多くはありません。わたしもそこまでのものは人生で1度しか経験しておらず、希望を見いだすまでに10年近くの時間を費やしました。未だに抜け出す事が出来ていませんが、この体験を経験出来たらからこそ、今があるんだ・・・などとは思っていません。
そのような前向きな意見は、きれいごとだと思います。出来る事なら体験したくはありませんでした。80年生きたとしても、わたしは8分の1をその闇に食べられてしまいましたし、今後どれだけ時間がたとうが、この闇が消える事はないと思います。一緒に生きて行くしか方法がありません。
よく、それが自分を強くしたんだとか、その体験があったから今の自分があるんだ、という話がありますが、やはりそれは、過去を肯定して前に進むための無理のある意見でしょうね。わたしにはなじみません。わたしは、経験したくなかった。しない方が良かった。しかし、それは起こってしまった。その起こって欲しくなかったような体験をした・・・とありのままの状態で受け入れているだけですね。
ただ、それが負の遺産であったとしても、自分の人生に何かしらの理由があり、起こったのであれば、何かしら価値は与えないと、やりきれないじゃないですか。だから、自分の存在に価値を認めるのと同じように、その出来事にも価値や意味を求めたがるのです。人間というのはそんなものです。
問題処理能力は確実に高まる
そのため、誰もが同じような体験を避けようと感じます。わたしは、よく自宅近くの食事処で記事を書いたりするのですが、地元の不良の子ども達がたむろすのでうるさく、迷惑だなと感じます。そして、よくからんでくるので、本当はその場所が気に入っていて、そこにいたいのに避けるようになりました。
わたしは、子どもの頃、高校生の不良グループに脅され、ゲームセンターの外でかつあげされた経験があるのですが、その経験をしてから、わたしはゲーセンに行く度に、その経験を思い出して、イヤな気分になります。これは、人間の防衛本能が働いている状態で、同じ事が起こらないように、脳の中枢に眠っている記憶があなたに警告しているわけです。ここは危険だよとね。
苦しい事を、イヤな事を体験すると、こういった問題処理能力は必ずつくようになります。これは能力差関係なく、どんな人でも手に入れられるようになる唯一のメリットです。わたしは、そういう考え方が出来るようになったおかげで、イヤな体験をしている時には、どうすれば対応出来るかを考えて動くようになりました。
これはやはり絶望期にたくさんの悲惨な体験を経験してきたからこそで、反面教師から学ぶという姿勢は覚えておいたほうが良いです。ゴミのような人間はたくさんいます。そうゆう人間から得られる唯一の学びでもあります。なので、すべてが勉強であるというのは、本当の事だと思います。天災のような、どこに怒りの矛先を向けていいかわからないものには、ただ祈るしかないですが。