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コンプレックスの多い人間ほど多才になるって本当ですか?~後編~

器用貧乏で運だけの人間が何故司法試験に2年で合格できたのか?

私は、「器用貧乏」と言われ、何でもやり始めは他人よりも上手なのですが、すぐに他人に追い抜かれてしまいます。一生懸命やっているのですが、何もかも時間がかかるのです。

今思うに、アクセルを踏みこむまで待っていてくれたらいいのですが、その前に「もう無理だから止めたら?」とか、「何やっても駄目だね」なんて言われてしまうのです。

そう言われてしまえば、頑張ろうと思っても、だんだん「どうせ自分はダメだ」と思ってしまいます。「女の子なんだから普通にできたらいいのよ」と親も言いました。

旧家の長女として生まれた私は、茶道・華道・日舞・ピアノ・剣道とたくさんの習い事をしていました。絶対音感があるとピアノの先生に誉められましたが、周りはそのことを重要視せず、茶道・華道・日舞に力を入れていたのです。

でも、私の好きだったのはピアノと剣道で、ピアノも4級まで、剣道も初段までやりました。でも、興味の無い他の習い事はさっぱりです。一応無理やりやらされ、華道だけは京都で名前を戴きました。

こんな感じですから、親の希望する事は全て「そこそこ恥ずかしくない程度」なのです。手先は器用なのに、図画工作はいつも「5」で賞状もたくさんもらったのに、芸大に行くほどではないのです。趣味の程度で楽しく遊ぶのが好きだったのです。

絶対音感・手先の器用さ・似顔絵や風景画の才能も中途半端な才能となりました。特技です。視力も左右1.5、耳も聴力検査で普通は聞こえないような全ての音域が聞こえるのだそうです。その他「利き酒」「香道の聞き分け」ができたりしたのです。鼻も舌も良いのです。

周囲は「凄いけど原始的な無駄な才能」と言いました。だから私は、何か一つでも才能を持った人は凄いと尊敬しています。何でも簡単にある程度までできてしまうと、あれもこれも興味を持って一つのことに集中できないのです。

「器用貧乏」だとか「運だけで生きてる」なんて言われ続けると、「どうせ・・・」という気持ちになってきます。努力しないでそこそこでやってのけられるならそれでいいではないかと思っていたのです。

30過ぎて前夫を失って就職に就こうとした時、初めて私の職歴も学歴も資格も全て否定されました。「一昔前のことは何の役にも立たない」なんて言われました。人生を否定されたようでした。何たってバブルの時代に就職した私は就職氷河期をなめていました。簡単に就職できると思っていたからです。

私は悔しくて、何も考える暇が無いほど限界まで頭も身体も酷使して、寝る時間も惜しんで勉強しました。そして合格したのです。その時の喜びは表現のしようもありません。初めて自分の意思で努力して勝ち取ったものなのです。

嬉しくて嬉しくて頑張る喜びを知りました。達成感も知りました。今までのように何となくできたのとは喜びが違うのです。「器用貧乏」でもなく「運」でもなく努力で勝ち取ったのです。本当に嬉しかったですね。

だから、どうしても今まで「努力しないで運だけで生きている」と言われてきた私の人生を変えたかったのです。司法試験を受けたのもそれが理由です。司法試験は資格試験でも最も難関な資格と言われています。

それに合格できたら「もう運だけ・・・」なんて言わせない、旧司法試験で合格率が上がった事も運がいいと言えばそうかもしれませんが、司法試験の難関さは運だけではどうにもならない事をわかってもらえると思ったからです。

「器用貧乏」で「運だけで何となく生きてる」なんて言われて来なければ、ここまで頑張れなかったでしょう。運がいい事は幸せだと思います。

でも、「運だけで生きてる」と言われるほど運が良ければ、そのお返しがいつか来るのではないかと恐くなります。私はただノホホンと生きていたわけではありません。前夫を亡くした時も、今までの人生のツケがまわって来たのかとも思いました。

私は、人が贅沢だとか色々言ったとしても、「器用貧乏」「運がいい」と言われる事は、嬉しいと思った事が無かったのです。「何も成し遂げられない人間」と言われているようなものです。これが私のコンプレックスです。このコンプレックスが司法試験合格まで辿り着かせたのだと思います。

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