コンバートで蘇った野球人生。塀際の魔術師からホットコーナーへ
エリートだった高田繁
かつて「塀際の魔術師」と呼ばれる外野手がいた。現在は横浜DeNAベイスターズでゼネラル・マネージャー(GM)を務めている高田繁だ。高田は昭和40年代、読売ジャイアンツ9連覇時代の左翼手として活躍、その守備力は「日本一の外野手」と呼ばれた。
高田は当時大阪一の名門・浪商高校(現・大体大浪商)の左翼手として一年生時に甲子園出場、さらに夏の甲子園制覇を成し遂げた。三年時には主将に選ばれる。その年、一年生として浪商野球部に入部してきた、現在は落語家の月亭八方は「高田さんはメチャメチャ上手かった。とても2年間であのレベルに追い付くのは無理と思い、野球を諦めた」と語っている。
浪商卒業後は明治大学に入学。そこで待ち構えていたのは「御大」こと島岡吉郎監督だった。鉄拳制裁は当たり前で、現在なら大問題になるだろうと思われる島岡監督だったが、高田だけは一度も殴られたことがなかったという。鬼より怖い島岡御大が一目置くほどのエリートだったのだ。
島岡監督が高田のことを気に入ったのは、あるミーティングでのことだった。いつものように精神訓話を延々と続ける島岡監督に対し、選手達は真剣に聞くふりをするも嫌で仕方がなかったが、1人だけ涙を流しながら聞く一年生がいた。それが高田だったのである。
島岡監督は自分の訓話を泣きながら聞く高田をいっぺんに気に入ってしまった。しかしこれには裏話があって、この時の高田はコンタクトレンズがずれたために涙が止まらなかっただけなのだ。もちろん、高田はそのことを黙っていた。そもそも島岡監督は、高田がコンタクトレンズをしていることを卒業寸前まで知らなかったのである。
巨人V9が終わり、大スランプに見舞われる
1968年、ドラフト1位で巨人に入団した高田は、俊足好打の左翼手として新人王を獲得。その後も巨人のV9に大きく貢献した。この頃から「塀際の魔術師」と呼ばれるようになる。
しかし74年に優勝を逃してV10ならず、さらに現役引退した長嶋茂雄が監督に就任した75年、高田は大スランプに見舞われた。左翼線に飛ぶ打球はことごとくファウルとなり「ファウル打ちの名人」と有り難くないニックネームを付けられ、打率も.235と低迷した。
さらに長嶋巨人の1年目は巨人史上初の最下位という屈辱。高田は責任を感じずにはいられなかった。
張本の移籍でコンバートを決意
長嶋監督は1年目の雪辱に燃え、日本ハム・ファイターズから「安打製造機」と呼ばれる張本勲を獲得しようとした。張本は高田と同じ左翼手。高田の外野守備がいくら日本一でも、打てない外野手ではどうしようもない。高田はトレードすら覚悟した。
しかし長嶋監督は高田をトレードに出す気はさらさらなかった。高田を自分の後釜、つまり三塁手に据えようとしたのである。前年、サードには巨人初の外国人選手(日系人を除く)であるデーブ・ジョンソンを起用したが、不振を極めた。そこでジョンソンを本職の二塁手に回し、高田をサードにしようとした。
30歳を超えたベテランが、内野から外野ならよくあるが、外野から内野(一塁手を除く)へのコンバートなど、ほとんど例がなかった。ましてや外野守備では日本一と言われた高田である。このコンバートはあまりにも無謀に思えた。
しかし、長嶋監督の考えは違った。レフトとサードは打球の質と角度が似ている上に、高田のフットワークなら充分に内野手をこなせると思ったのだ。何よりも、高田をこのまま死なせるのはあまりにも惜しかった。高田もサードを自分の生き残る道と考え、コンバートを了承した。
地獄の特訓で蘇る
秋季キャンプからサードへのコンバートが始まった。レフトと打球の質が似ているといっても、サードはホットコーナーと呼ばれるほど痛烈な打球が飛んでくるポジションである。
長嶋監督は高田に容赦なくノックの雨を降らせた。硬球を体でモロに受け、全身がボロボロになる高田。そこにかつてのエリートとしての姿はなく、とても30歳過ぎの練習とは思えなかった。
76年のシーズン、高田は見事に蘇った。長嶋の現役時代に勝るとも劣らない三塁守備を見せ、ダイヤモンドグラブ賞(現・ゴールデングラブ賞)を受賞。外野手と内野手の両方での受賞は史上初だった。
さらに打撃でも.305をマーク。内野手としての猛ノックが足腰を鍛え、打撃を蘇らせたのだ。この年の長嶋巨人は前年の最下位から優勝へ登り詰め、高田とともに巨人も復活したのである。
高田のイチかバチかのコンバートは長嶋監督最大のヒットと言われる。高田は80年を最後に引退したが、コンバートがなければ76年の時点で選手生命は終わっていただろう。
2011年、高田はDeNAに買収されたベイスターズの初代GMに就任、自分の後に巨人のホットコーナーを任せた中畑清を監督として指名した。