「熟年」も迷いあり。その迷い方に「味」があるかが重要な理由
たまには居酒屋で酔うこともあるでしょう。人には言えない愚痴が身内を駆け巡ったりもするでしょう。それが人間です。それが男です。まして「熟年」まで戦い続けてきた男であれば、紆余曲折の足跡の中で苦い思い出もいくつかあって当然です。そんなあなたの「迷い」こそが、「味のある熟年」の肥やしだと知りましょう。
俺は誰だったのか
サラリーマンは、鼻輪で引きずり回されている牛です。だからと言って、自分を見失っていたら寂しすぎます。自画像を思い描いてください。
「俺は誰だったか?」
「何にすがればいい?」
「なぜ俺はこのコースをひた走っていたんだっけ?」
こぼれたコーヒーのような自分
この世は思い通りには行かないものです。心を焼きつくし、背中を丸めて、時折は子供のように「迷子」になってみるのも大切なことです。生きていくのが上手くなくても、いや、上手くないからこそ、しみじみと見えてくる人生の味わいというものがあります。
苦いコーヒーを啜って、その苦さを「寂しさ」と重ね合わせれば、いつの間にか会社に飼いならされてしまっていた自分を自嘲したくなるでしょう。お茶を飲んでいてさえ会社の影を引きずっている惨めな自覚。プライドなんて、こぼれたコーヒーのひとしずくに思えてきたりもします。
大仏様のように半眼微笑する
何となく人生の意味も分かりかけてきて、会社の同僚たちの性格も才覚も手に取るようによく見えて、ダメなやつも可愛いやつもいる。だからこそ毎日、その胸にさまざまな風が吹いてくる――。
自分に聞いてみましょう。自分は思うとおりに生きているかな、と。自分が自分であるために、何と戦っているだろうか、どこを目指しているだろうか、そしてひそかにあなた自身の「解答」を見出し、心でそれを温めてください。
あなたが「味のある熟年」であれば、そこで大仏様のように半眼微笑できるはずです。まだまだ人には語れずとも、少し大きな明るい夢も背負っているという自負心が湧いてくるはずです。
識見、風格があって温厚
年相応に心に鎧は着ていて当然です。しかし柔らかな心も多分に残していなければ悲しいことです。識見、風格があり、温厚でどちらかと言えば付き合いやすいおじさんになっていたいものです。両手を広げ、心を広げて、緩やかに現実を闊歩しましょう。そうすればあなたの背中を見て育っていく後輩も少しはいるはずです。
思い出に頬を吹かせる熟年
常識に押しつぶされたオヤジになってはいけません。罪を犯す哀しみを知らぬ強面(こわもて)のオヤジというのは、反省力のない鈍根にすぎないと知るべきです。愛の重さと軽さとが噛み分けられて、人情の水たまりに心を濡らす熟年でいたいもの。
自分だけの思い出がたくさんあるはずです。それを大切にし、思い出たちに頬を吹かせて星を見上げるゆとりを持った熟年になりましょう。思い出というのは、実は「あるもの」ではなくて、「つくるもの」なのです。しかも、それを土壌にして未来に夢を花咲かせるものでもあります。萎えてしまった熟年は、既に熟年後であると言うべきです。