「自分史上、今が一番」という信念を持てたら、充実して生きられる
ある種の大人は、どの年代の時も、「今の自分が一番いい」と信じて生きています。若い時も、年を取ってからも、「自分史上で今が最高に幸せだ」と感じています。それは甚だ幸せな心境であり、性格も明るくなります。そうなるためには、どうすればいいのでしょうか。
幸福と不幸は紙一重
仮に、現在の状況が経済的にも、人間関係の上でも、まずまず安定していたとしても、自分より上を見ればきりがないし、不満足な点も少なからずあるというのが普通です。欲を言えばきりがありません。
そんな中でも、素直に今が最高だと思える小欲な人と、逆に不平不満に取りつかれて、絶望感に近い不幸感を抱く人とがいます。幸福の感じと不幸の感じは、紙一重なのです。
現在には楽観を抱き、未来には悲観を抱くこと
幸福感を強く身につけられる人には、顕著な特徴があります。現状と近未来に対しては根強い楽観を持ち、遠い将来に対しては悲観を持つという特徴です。
今を評価する際には採点が甘くて、プラス思考を得意とし、多少の不満はあっても自分は幸福だと思えるのです。でも将来的には、何が起こるか分かりませんので、先行きは不安です。だから、本日只今が一番、最高に幸せという気持ちになるのです。
自信のなさに福音が降ってきます
客観視すれば、誰の人生行路も起伏、つまずき、転落などの繰り返しです。がむしゃらな時代も、下積みの時代も、周囲に裏切られて泣いた時代も、それはあったことでしょう。それでも人間というものは、常に「今が最高だ」と感じ続けて生きることが、不可能ではないのです。
今を大切に思う、ということは、裏返せば、明日のことは分からないということです。仕事で存在感を示すことができた時、「今日は幸い成功したが、明日は失敗して転落するかもしれない」と感じます。その自信のなさが、今の幸福を輝かせ、そういう素直な心に天から福音が降ってくるのです。
不安の風に吹かれて生きる
今はよくても明日は見えないという不安、もしそういう思いが消えてしまったら、人間は自堕落になっていくものです。安心しきった魂は、必ず放漫の池に落ち込み、怠慢の沼に沈むのです。
上手な生き方のできる人は、「概ねいいことばかりだった過去」を頭の裏側に貼り付けています。そして不安の風を顔面一杯に吹かせて、今を十分に楽しむ術を知っています。
輝ける過去があるから今が幸せ
かつてスターだった人や大成功した人は、その後は下り坂の人生を辿る例が多いでしょう。でもそれでも「今が最高」と実感して生きることはできます。今が最高というのは、収入や地位が最高ということを意味するのではありません。過去の栄光を大切に胸に秘め、今をそれなりに充実して生きていれば十分幸せでいられます。
「幸せだったあの頃に戻りたい」という思いは、ゼロでなくてもいいのです。過去は懐かしがればいい。でもそれを現在只今の否定に重ねてしまうのは愚かなことです。過去は過去、今は今です。素敵な過去があるなら、それを自分の宝物にして楽しんで生きていきましょう。それがあるからこそ、今が最高なのだと思えばいいのです。
いい生き方をすればそれでいい
「今が一番幸福だよな」と、一度自分自身に言ってみてください。「そうだな」と素直にうなずけますか?それとも反発が生まれてきますか?
それは人によることでしょう。でももし、前者であったならば、あなたはいい生き方をしてきましたね。その幸福感には、不安だって含まれていることでしょう。それでいいのです。万全の幸せなんてありません。
巨万の富と絶頂の地位を得た人でも、不安や悲しみはあるのが当然です。ですからあなたは、いろいろ不安を含む自分なりの幸福感を道連れにして、自堕落からは離れて生きていけばいいのです。
不完全のまま幸せになれる
キリスト教では「原罪」を説きます。人間は生きている限り、罪と無縁ではいられません。ですから誰にも悔い改めるべき過去の思い出はあるものです。でも、だから「幸せであってはならない」とは言えません。
不完全で罪深い生き物が私たち人間です。それでいいじゃないか、と思える人は幸いなのです。もし神仏がいるのなら、罪のままに愚かな人間を救ってくださるであろうと信じればいい。神信心の苦手な人であれば、大自然に向かって素直になれればいい。月のしずくを手で掬って、「今が一番ですね」と自分に言い聞かせれば、自然は笑ってくれるでしょう。
不幸な人もおいででしょうが…
今が一番不幸だ、としか思えないという人がいたら、ごめんなさい。時の流れがいつかあなたの魂を変えてくれることを、心から祈念申し上げるしかありません。