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「半円観」の男から「一円観」の男へと飛躍しよう!

ものごとを全体的に見ることをせず、一方からだけ眺めて事足れりとするのを、「一円観」に対して「半円観」と呼びます。ものごとを丸ごと見ずに半分だけを見て、それが全体であると誤解しているわけです。世の中にのさばっているいっぱしの大人たちの中に、「半円観」の人物がいかに多いことか!

権力者には、とかく「半円観」が多い

「半円観」の人物が権力の座にあったりすると、始末が悪いものです。というより、権力の頂を登り詰めると、人間というやつは困ったもので、とかくコロリと「半円観」の人になってしまいやすいのです。

独りよがりになる権力者

例えば人が会社のトップになると、その権力を恐れて周囲から諫言する者がいなくなります。周りの人間が一様に「はいはい」「仰せの通りでございます」と言って頭を下げていれば、本人はいつしか自己絶対化に走ります。

ですから、たまたま反論などを耳にすれば、「あいつはわしの深い考えが全然汲み取れていない、極めつきの愚か者だ」と決めつけてしまいます。

可愛い子には旅をさせろ

そういう人は、人を見下す癖が身に染みついていますので、「彼を鍛える、教育する、忍耐力を育ててやる」という名目で、とんでもない逆境を強いてこしらえて、人に押しつけたりもします。

曰く「可愛い子には旅をさせろ」「獅子はわが子を千尋の谷底へ突き落すものだ」云々と、自分に都合のよい理屈をつけて、反対派をいじめ抜きます。

部下には迷惑をかけ散らし

それでも反発する者がいると、「わしの温かい親心が分からん馬鹿者め。救いようのない怠け者の恥知らずだ」とうそぶき、どこかへ配置転換してしまいます。

その実、自分の能力不足のため部下に迷惑をかけ散らしているのに、それには一向に気づかず、全く逆だと信じて疑わないのです。自分を過信し、反省力を喪失しているのです。

寂しさから頑固になっていく

そもそも、部下が上司の足らぬところを補佐するのは当然の任務であるとして、部下との約束は守らないし、義務も果たさない、それで部下が四苦八苦していれば「勉強させてやっているんだぞ。せいぜい感謝せい」と来る。

寄る年波で、人は誰でも「半円観」の人になっていくものです。昔考えたことの中に閉じこもってしまうのです。時代変化に取り残されて、その寂しさから余計に頑固になっていきます。時には訳知り顔になって笑っていますが、本音では自分が一番偉いし、正しいのだと確信しています。

悟りは階段である

「わしがこれほど諸君のシアワセを考えてやっているというのに、わしの気持ちの中にまだこんなに不満があるということ自体、諸君の不完全さを証明して余りある」などという、自己中そのものの論理に、それとは知らずしがみついている社長だっています。

人は一度「悟って」しまうと、そこに根を生やして動けなくなってしまう場合があります。自己流の悟りは、ごく危険なものです。本当の悟りは、悟った後でもまた迷うものなのです。

迷い続けるのが人生ですから、悟りというのは階段を上がっていくようなもので、その終点は「無」です。「無」というのは、ゼロではなくて、そこからまた全てが始まるということなのです。

「半円観」は、「悪悟り」である

「半円観」というのは、「悪悟り」の一種です。世の中を男の立場からだけ見て、女というものを卑下しているとか、支配する側の目でしか見られなくなって、被支配層の人たちの気持ちが分からないとか、そういう人物はしばしば見かけます。

逆に、下俗の価値観を全てだと信じ込んでしまうと、高潔な者の倫理観や豊かな美意識に、全く理解が届かなくなってしまうというようなこともあるでしょう。

これだけは心がけよう

「半円観」の人から、「一円観」の人へと成長したいものです。とはいえ、人間は土台、誰でも「半円観」だとは言えます。自分の分かることしか分からないものですし、できることしかできないのは仕方のないことだからです。

完全な「一円観」は無理だとしても、これだけは心がければ何とかなるのではないでしょうか。すなわち、自分の立場にこだわり、それを絶対化して他人に押しつけるようなことだけは、できるだけ慎みましょう。

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