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何をどう学ぶか、学問の本質をつかまえて人格を磨こう!

「学問」とは何でしょう。いろいろなとらえ方があるでしょうが、「人間を変えるもの」が学問だという言い方もできると思います。誰を変えるのかと言えば、自分です。自分を変えるために学問する、これが本当の学問であり、資格を取るためとか大学に入学するためとかでやるものは、「学問」とは別物だと言えるのではないでしょうか。

衣食のために学問するのか?

人間社会の根本問題は何かと問われたら、政治でも経済でもなくて「教育」だと答えたいと思います。青少年期の教育の姿かたちによって、民族は確実に変質します。

衣食のために学問するのではありません。逆に「学問の中」で、あるいは「道」の中で衣食するのだというとらえ方に、ぜひとも注目しましょう。

もし衣食のために学問をしていたら、たちまちにして魂と没交渉な機械的学問に堕落していくことでしょう。雑知識を丸暗記して○×式の問題に素早く回答できることは、人間の修養とはほとんど関係のない技術だと言えるでしょう。

学歴は学問の副産物にすぎない

学問の基本的な目的は、人間の本質をつかみとり、あるべき人間の道を知り、それに沿って生きることにあります。片々たる知識技術は、副産物にすぎません。その副産物ばかりが尺度になって、「学歴」が構成されているのが現状ですが、これは何とも嘆かわしいことだと知っておくべきです。

真剣に学ぶにつれて、暁の光が夜の闇を破るように青年の自覚に世界があらわれ、人間の生きる道筋が発見されていきます。真実に学問をした人は、その人柄にもおのずからなる威厳が伴うものです。威厳は地位・権力からも出てくるものではありますが、それは得てして剥げやすく、時として滑稽ですらあります。

風格ある人物になること

地位・財産・学歴は「持つもの」to have であります。学問は人がそれで「あるもの」to be を変えるものです。人格 to beを涵養すること、すなわち世界と自己とのかかわりの根本に思いをいたすことは、同時に「公」を知り「礼」を悟っていくことにもつながり、本物の「教養」を形成していくわけです。

人は、孤立しては存在しません。社会の只中にあって、窮しても困惑せず、貧しても貪らず、勝っても奢らない、そういう風格ある人物になることが、学問の究極の目的でなければなりません。

規準がなければ「自由」もない

学問は、一種の「規準」だと言えましょう。水というものは、器の形になってこそ安定します。人間も環境によって形を定められて、初めて「人間」になります。習慣とか道徳とか言葉とか肉体とか――みんな「自分」という意識を入れる「器」です。

現代流の思考では、とかく規準を嫌って、あたかも蝿を手で追うように払いのけたがりますが、もし規準が何もなかったら「自由」もないのです。

たとえば地縁や血縁も魂の桎梏(しっこく)であるととらえて、これからの脱出が「自由」なのだと言いたがりますが、自分を写す鏡をすべて失った人間は、自我を一定に保つことすらできなくなると思われます。

知情意のバランスを保つのも学問

学問は、人間を人間にするための規準です。ところが知育だけを勉強だと思い込んでいると、左脳の概念化機能ばかりに人間性がかたよっていきますから、ともするとロゴスの堂々巡りに落ち込んで這い上がれなくなります。最終的には無政府主義やニヒリズムにたどりついて、人生を退嬰的にしか見られなくなることでしょう。

しかしながら、人生で肝心なのは実は「知」であるよりも「情」と「意」のほうなのです。才気走った若い人にはそれがよく分からず、小理屈の大海に沈没していきます。理論さえ正しければ善だと信じて、浅い情意のままに暴走して人生をしくじる例が少なくありません。

文化も道徳も学問も人を縛るものではありますが、縛られない自由などないということに気づくのが遅すぎると、そういう悲劇になります。

真の学問により四悪から逃れよう

愚者がたまたま高学歴になったのは、単なる愚者にすぎません。でも高学歴ゆえに愚者になった者は、自惚れ高慢ちきと卑怯未練とがダブルになった、救いがたい愚者です。

ここで愚者と言うのは、単なる無知を意味しません。偽り・エゴ・無法・贅沢という四悪を胃袋に詰め込んだ愚者を言います。人間は、真の学問をすることによって、それらの四悪から逃れられるのです。

だから学問は人間をつくると言うのです。なのに今はそういう学問には目もくれず、受験勉強ばかりしていますから、四悪が政財界始め国中に蔓延しているのかもしれません。

「学問」は、今では辛気臭い言葉かもしれませんね。細分化専門化された分野での学問は、「人間学」から遠ざかり利便的文明を追い続けています。

でも何かが違うと思うのです。学問から人間を引き算したら、自然科学しか残らないでしょう。そこには人間の生き方の学びは見出せず、このままではいずれ「道のない国家」が現出するのではないでしょうか。

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