童心と稚心の違いを知ってこそ「オトナ」になったと言える
いい年をして幼稚なアニメーションに取りつかれていたり、子供じみたゲームに夢中になっていたりする中年たちも少なからずいます。人間には、いくつになっても童心があり、それはある意味で大切な人間性の一部です。とは言え、あまりにも幼くて自立心のない成人は、「童心」と「稚心」を混同していると言えます。
童心は美しい
孫と一緒にカルタ取りに興ずるおじいちゃん。それは微笑ましい光景であって、そのおじいちゃんが幼稚だというわけではありません。雀の子と戯れている小林一茶の絵姿は、もちろん貴い作品であって、少しも見苦しいものではありません。唱歌の「あかとんぼ」や「夕焼け小焼け」を聞いて年寄りがしんみりするというのも、知能が小学生であるというのとは別物です。
純粋な感動は貴い
幼いころに「少年ケニヤ」を愛読した世代は、大蛇ダーナに憧れていたものですから、大人になってもまだ大きな蛇を見るのが好きだと言います。手塚治虫の漫画で育った世代の人たちはロボットが大好きで、その後、アシモフのロボット小説などに親しんだものです。
大人になって振り返ると、無論、いくつもの挫折体験の向こう側に、いくらか滲んだ格好で昔の憧れがぼんやりと見えています。歩んできた人生がフィルターになって、昔どおりの姿では見えてきません。でも、幼いころの感覚を懐かしんで、純粋な感動を忘れずにしまっておくことは、「童心」だと言えましょう。
稚心とは甘ったれのこと
「稚心」というのは、それとは別物なのです。童心と似ている部分もありますが、全く違うものです。幼稚な心、すなわち、甘ったれて親ばかり頼りにし、責任も取れず我慢もできず、自分勝手で「志」というものを持っていません。
自制心が全く不足しているのです。頭の中に「公」というものがゼロです。「私」が全部であり、本能だけに支配されて社会の物事を見ています。
公を知らないと恥もない
公共心がないと、例えば人前で男女がベタベタしたり、電車の中で人目もはばからず化粧をしたり、傍若無人に携帯電話をかけくさったりもします。
ツィッターにハレンチな投稿をしたり、分別しないゴミを平気な顔でポイ捨てしたり、図々しく行列に割り込んだりもしてしまいます。全ては「稚心」のなせる業です。「私だけはいいだろう」とて、公衆の迷惑を顧みない「甘え」がその根底に横たわっています。
「公」があるから「恥」もあるのです。人間から羞恥心を引き算したら、家畜やペットと同じです。それを「畜生道」と呼びます。稚心とは、本能に支配された心のことであるとも言えるでしょう。
自己抑制の意志と力
「公」のために死ね、などと言うつもりは少しもありません。でも、私的な利害のトータルが「公」なのではありません。皆のためには私を制限することも必要です。
自己を抑制する意志とパワーを持たずして、権利主張ばかりを人権だととらえて疑わない「子供」は、30歳になっても40歳になってもまだ子供です。
稚心を去るということ
人間が、オトナになるということは、まず「稚心を去る」ことだと言えましょう。もうひとつ言い換えるならば、オトナになるとは物事を見るときに「長い目で見、広い目で見、本質を見る」ことができるようになることであると、そうも言えるのではないでしょうか。展望があり、希望があって、人生に設計図を携えて生きる人をオトナと呼ぶのです。
逆に言えば、それのできない心が、幼稚な心「稚心」というものなのです。目先だけ、欲望だけで人生を解釈し、金と物だけがこの世の支えだと勘違いしている単純さが、その特徴だと言えます。
初心を忘れずに生きよう
そして、それぞれのオトナはそれぞれの過去を持っていますから、いろんな形の童心を抱いていて当然です。童心は、純情と愛と冒険とをたっぷり含んだ、心のオアシスのようなものだとも感じられます。
誰でも若くして、古びた地図を片手に握りしめて、自分だけの理想を探しに大洋に船出した時代のことを、忘れられはしないでしょう。そのドキドキとワクワクをいくつになっても思い出し、初心忘るべからずを旨として生きていける、清々しいオトナになりたいものです。