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欲しいものが得られない時、執着するか与えるかどちらを選ぶ?

人は生きているうちに欲しいものは少なからず誰でもあるのではないでしょうか。

よくよく考えると、昔はなかったのに今はあって、それが当たり前になりブームが来たりグレードアップするものが欲しくてたまらないもの、車でも服でも飾りでもいえることです。

昔は存在しなかったパソコンやテレビも最初に出たものから次々と新しいものが出たりグレードアップしたりするとそれが欲しくなったり、買い変えたりと欲しい気持ちが減るどころか次々と欲しいという人もいるのではないでしょうか。

ですが、欲しい欲しいと思って手に入らないなら欲求不満になり、より苦しくなるかもしれません。

欲しいものは与えると得られる

自己啓発などでいわれることの1つに、欲しいものは与えると得られるということがあり、それが気付きになる人もいるのではないでしょうか。

お金が欲しかったらお金を与えることで欠乏感を満たすことが出来る、愛情が欲しい時に愛情を与えると満たされた気持ちになる、それは実感している人もいるかもしれません。

今まで食べることが趣味だった人が子供が生まれて食べさせてあげることに時間を使うようになったら、暴飲暴食がなくなったという人や、お金が減らないように無くならないために管理していた人が、そのお金を分け与えるようになったら気にならなくなりさらにお金が入ってくるようになったという例もあります。

お金が欲しいなら自分が持っている価値を提供したらお金という形で返してくれるのはビジネスを見ていても分かります。

ですが、時間給などで嫌な仕事をしている人は自分が与えた分返ってくるという考えがなかったら、その時間をより疲れないように、ストレスがたまらないように、楽するように働くかもしれません。

仕事も自分が提供出来る価値をどれだけ提供したか、それによって与えられるというのが基本の形ですが、それを意識していない人はただの苦痛になるかもしれません。

ですが、営業などの成果報酬の場合、自分が動いた分リターンがあると分かる人は、自分が与えるほど得られることを体感している人もいるのではないでしょうか。

与えれば得られる、でも・・・

欲しいものがあれば与えればいい、それは実際にやってみるとだんだんと体感出来るものですが、「じゃあ与えれば絶対得られるんだ」と期待からスタートする人もいます。

ですが、期待は失望を生むもので、「どれくらい与えれば得られるんだろう?」と考える人は、最初から与えることより得られるリターンを考えています。

すると、与えることがおろそかになり誰でも出来るぐらいの価値しか提供しないなら相応のリターンが返ってくるでしょうし、それに満足出来ないと失望したりリターンに執着したりするかもしれません。

もちろん与えることと得られることのバランスも大切で、得られると期待して与え続けるうちに、与え方がよくないことに気付かず犠牲感を持ちながら与えることは自分も受け取るほうも気持ちよくないでしょう。

やはり与えるほうは自分が与えられるものを静かにワクワクして夢中になっていること、、そして受け取るほうもその価値を100%に近い形で知り、受け取り、お返しすることがどちらにとっても気持ちいいのではないでしょうか。

なので、与えると得られるは本当ですが、与え方によっては与える人が役割や犠牲を感じながらやらないといけなくなるなら、バランスを考えた方がいいこともあります。

自分らしい愛から与えるとしたら?

役割、犠牲は「やらないといけない」といった不安や怖れから出るものですが、心から与えたい「やりたい」という気持ちは自分の中の愛情から生まれます。

愛情という言葉は人によっては受け入れにくいなら、こだわりや情熱、やりたいことや分かち合いたいことなどに置き換えてもいいと思います。

そこには役割や犠牲がないので心から湧き出るとめどないエネルギー、静かにワクワクする気持ちがあるのではないでしょうか。

そして、その気持ちから出てくることはリターンを求めない純粋に与えたいという気持ちで、最初からリターンを求めているものではないと思います。

人前で話したい、人前で歌いたい、デザインをしたい、ゲームをしたい、スポーツをしたい、それらはそれをやることでお金や称賛をもらえるからやることでしょうか?

小さい頃、ゲームをやれば親から認められる、お金がもらえるからやろうという子供より、逆に親がやめなさいといってもやめられないぐらい夢中になったのではないでしょうか。

大人になったらそういう感性がなくなるわけではなく、自分らしいものを見つけてそれに夢中になっていると、それを見た人が見ただけでエネルギーがもらえる人、それに興味がある人はそれを学びたいかもしれませんし、提供してもらいたいかもしれません。

そうすることで自然と与えていることになり、犠牲感なく与えられるのではないでしょうか。

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