複数の手帳を使い分ける!多冊派のススメ!
手帳を1つ選び、それを使う。終わるまではとりあえず使う。手帳にはそういうものだという「気分」がある。
それにここ数年で手帳術やノート術がたくさん出回る中で、特に支持を受けたと思しきは「情報の一元化」。すなわちいろんなことを一冊に集約する方法論。
だが、そういうやり方が性に合わなかったり苦痛だったりすると、記録することそのものが嫌になってやめてしまうという話もよく聞く。それではもともこもない。
前置が長くなったが、今回は手帳もノートも複数使い分けでいいじゃない、多冊派で行きましょうよ、という話。
1 情報一元化ではなく、情緒性を大事にしたい
どんな情報も1冊にまとめられるなら分散しにくく便利に違いない。
だがよく考えてみて欲しいのだが、もし効率的情報の集約を行うことが最大の目的なら、デジタル全盛、クラウド活況の現在にわざわざアナログに集約を試みるのは非効率的ではないか。端から検索性に優れたデジタルに集約したほうが効率的だ。
それでもアナログ手帳は売れに売れ「スケジュール管理はアナログ回帰傾向」とさえ言われるほどに紙媒体は人気を博している。
その理由は恐らく、個人がデジタルの無個性やソーシャル・ネットワークの多元的他者とのつながりに疲れ、紙といういわば閉じられた空間で情緒性を育みたいという欲求が潜在的にあるからなのではないかと思っている。
紙の手帳は原則自分だけの世界で、他人に開示するものではないからだ。
2 量的質感
あと紙は当然物理的存在だから、書きためてゆけば量的質感が出てくる。全て自分の文字でうめつくされた紙の束をパラパラめくってみると「あ?書いたなぁ」という実感と感触が得られる。この手の触感と視覚的作用がアナログならではの良さ。
人の編んだ本がどっさりと積み上がっているとゲンナリするものだが、自らの手によるものなら時間の経過も含めて価値だろう。自分の思考や想いの断片が記録されてゆくことがどれほど貴重かは言葉ではいい尽くしがたい。
3 多冊の方向性
だが一方で一冊に決めるのが悩ましいという声を聞く事が多い。書店や文具店では毎年ひしめくように多彩な手帳が売り場を覆い尽くす。どれも魅力的で、売り場では多くの人が自分にあった手帳を求めて真剣な顔つきになっているのを見かける。
私は気になるものを複数買って、それを併用するのも悪くないと思っている。本稿のテーマは多冊のススメだ。
4 多冊のメリット
私の多冊についての考えを列挙してみよう。
- 用途や気分、更には状況に応じて異なるものを用いる。
- 情報一元化はそもそも無視。それはデジタルに任せる。
- 一冊ごとに気分の切り替え効果を楽しむ
- スケジュール、雑記、特定の記録のいずれであっても意外性(偶有性)を期待できる
上のことをまとめるとすれば、最大のメリットは「気分の切り替え」。これに尽きる。
いつも同じ物を使うことが前提で、それに疑問を差し挟む余地のない方は本稿の内容に今ひとつ得心がゆかないかもしれないが、私はこの「気分の切り替え」には日常の意識のマンネリ化や思考の硬直化を防ぐ作用があると思っている。
備忘や予定管理などは付帯的用途にすぎない。
5 予定と記録の違い
手帳の最も象徴的機能としてのスケジュール管理。多冊分冊の考えを適用すると予定と記録の違いが見えてくる。
スケジュール管理上の予定と記録は意味合いが大きく異なる。それは、過去と未来という時間軸の違いであり、予測と結果の差異でもある。その違いを書いてみて、自分の過去と今と未来の時間的変遷を空間で捉えると面白い。
一つの予定表に予定→修正→確定を繰り返し、完結した時には補足や書き足し、余録などがひしめいている。そんなディティールの付加によって塗りつぶされた様はあとから見て楽しい。
でもそれを記録として見るにはいささか扱いづらい。これが別々の手帳に綴ってあったら前述の空間的捕捉がしやすくなる。記録雑記に特化した一冊を読むと完結した自分の思考と行動に感慨とか、問題点や次の行動へのヒントが散りばめられていることに気づく。
6 多冊は飽きっぽさと表裏一体
多冊するというのは、いうなれば一冊に決められないから、複数冊使ってみるという気分と、自分の内面を切り分けるという2つの意味合いがある。とりわけ後者は切り分けることで自分を理解し直すことを主眼にしている。
多冊は飽きっぽい人にこそ試して欲しい方法だ。飽きっぽいというのは、結局自分が求めているものが明確じゃないということの裏返しである。
しかも自分が「求めているもの」は日々刻々と変化している。「見つけた」と思っているひとであってもそれを維持しておくのはなかなか難しいものだ。多冊はそういう変動的な自分を絶えず確認し続けるためのアンテナのようなものだ。
複数の手帳をビジネス、プライベート、趣味、特定記録等に使い分けてみてほしい。自分が欲しているものがもしかしたら浮き彫りになってくるかもしれない。