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秀吉と勝家の賤ヶ岳の戦い。七本槍いえるかな

本能寺の変で織田信長を討ち取った明智光秀を山崎の合戦で討ち取った羽柴(豊臣)秀吉。そんな秀吉と柴田勝家は賤ヶ岳(しずがたけ)にて戦います。

もめてないかもしれない清州会議

信長と信忠(嫡男)亡き後、織田家の後継を決める会議が清州城にて開かれます。信孝(三男)を推す勝家と三法師(信忠の長男)を推す秀吉とでもめたとよく言われますが、反目していたのは信雄(次男)と信孝であり、三法師にしておいたほうが収まりがよいため三法師に決まったとも言われています。

清州会議の時点では秀吉と勝家は反目していなかったようです。しかしその後、秀吉が信長さんと信忠さんのお葬式をド派手にやったりして己を喧伝し始めたため、次第に対立していったとも言われます。

馬も大変な一騎駆け

信孝は三法師を預かっていましたが、秀吉に反発して引き渡しを渋っていました。秀吉は信孝のいる岐阜城を包囲して降伏させます。雪で動けなかった勝家も動き始め、近江柳ヶ瀬に陣を布きました。秀吉も近江へ進み木之本へと着陣します。互いに下手には手が出せず、ずるずると膠着が続きます。

信孝が再び岐阜城にて挙兵すると、秀吉は美濃の大垣城へ向かいます。その隙に勝家の甥である佐久間盛政は奇襲をかけ、秀吉方の大岩山砦と岩崎山砦を落とします。勝家は盛政に「砦落としたら早く帰ってきなよ」と言っていましたが、盛政は大岩山砦に居座ります。

賤ヶ岳砦に布陣していた秀吉側の桑山重晴も不利とみて撤退しようとしましたが、ちょうどよく丹羽長秀が合流。一緒に盛政の軍を追い返し、賤ヶ岳を取られることにはなりませんでした。

盛政に大岩山が取られたことなどを知った秀吉は、大垣城を出て木之本までの50km余りを馬マラソン。馬を乗り潰しながらも5時間程度で到着します。このとき道中にご飯やら松明やらの用意をする役を担ったのは石田三成だと言われていたりします。それらを頼りに、部下もやっとこさ秀吉に追い付きます。

秀吉の速さは予想外

ものすごい勢いで帰ってきた秀吉さん。まだ帰ってこないだろうと思っていた盛政は動揺して退却を始めます。秀吉は盛政に仕掛けますが柴田勝政が盛政の救援に入り、盛政は一旦逃げたものの今度は勝政が危なくなって盛政が助けに行くという大激戦になります。

そんな中、勝家方の前田利家が勝手に帰ってしまいます。利家は秀吉とも仲が良かったため、耐えられなくなったとも言われます。形勢不利になった勝家はやがて敗走、秀吉の勝利となったのです。

賤ヶ岳の七本槍

福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元。この7名を賤ヶ岳の七本槍といいます。手柄をあげたとして数千石のご褒美をもらった彼らですが、手持ちの家臣に有力者のいない秀吉が小姓である彼らの名を上げるため大げさに褒めただけとも言われます。

勝家とお市の方

浅井長政と死に別れたお市さんを勝家は娶っていました。彼女を逃がそうとする勝家ですが、お市は共に死ぬことを望むのです。茶々、初、江の三姉妹を逃がして、勝家はお市を刀で貫き、自身も腹を切ります。天主に火を放ち、北ノ庄城は燃え落ちました。

切腹の際に腸を出す無念腹

勝家の死後、信孝も自刃に追い込まれます。彼は腹を掻っ捌くと腸を引き摺り出し、掛け軸に向かって投げつけたとのこと。しかもその掛け軸は残っているとか。勝家も「私の腹の切り様をよく見て、後の手本にするがよい」と言い放ち、これまた腸を掴みだしたと言われています。お腹の痛くなる話です。

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