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豊臣秀吉の兵糧攻めその壱。壮絶!三木の干殺し

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2014.04.20

豊臣秀吉は水攻めや兵糧攻めのように、城を囲みじわじわ追い詰める戦法を幾度か取っていました。自軍の消耗を抑えるため、と言えば聞こえはいいですが、やられた方にすればなかなかに悲惨です。ここでは兵糧攻めのひとつ、三木の干殺しについてざっくり述べていきます。

別所長治の離反

織田と毛利は拮抗を保っていましたが、やがて対立が明白になると信長はまだ羽柴な秀吉に中国攻めを命じます。そんな中国攻めにおいて、要所である三木城に入っていたのが別所長治です。

そんな長治ですが、どっこい毛利方に寝返ってしまいます。理由は名門出身の別所氏と成りあがりの秀吉との間に確執があったからとか長治の奥方の実家である波多野氏も織田に反発していたからとか諸説あるためよく分かりません。

信長に担がれて上洛したと思いきや信長に追放された足利義昭は毛利や本願寺などと共に信長に抗っていました。義昭は長治にも誘いをかけていたようです。そんなこんなで、長治は諸説ある理由の何かしらをもって織田を離反します。

上月城は見殺し

上月城には毛利に滅ぼされた尼子家の再興を目指し織田と結んでいた尼子勝久や山中鹿之介が入っていました。そこへ毛利方が攻めかかります。秀吉は上月城を助けようとしたものの、兵力に余裕はなく苦戦。結局上月城は信長の命で見捨てられ、後に陥落してしまいます。

三木の干殺し

織田方は三木城の支城を落としていき、陸路も海路も絶つべく周囲に付城を築いて徹底的に包囲することを試みます。一方、荒木村重も織田を裏切り、三木城へ兵糧を補給する道を確保。しかし村重の籠っていた有岡城は1年ほどで落とされています。

毛利や雑賀も兵糧を三木城へ搬入しようと動き、合戦にもなっています。しかし秀吉の包囲は固く、やがて毛利からの兵糧の搬入も無くなってしまった三木城は困窮します。籠城を始めた際の総勢は国人衆やその家族など7500人ほどもいたらしく、兵糧の減りは速いのです。

兵糧が底をついてくると、肉食系でないこの時代の人々が牛やら馬やらを食べたあげく、それらも尽きると人までも喰らったとのこと。

終結へ

三木城に近く、長治の弟である別所友之が守っていた宮の上要害、ついで長治の叔父、別所吉親の守る鷹の尾城も落とされてしまいます。友之と吉親は本丸に逃れますが、そこへ秀吉軍が迫ります。飢餓状態の城兵にはろくに戦うことなどできず、別所氏はもはや抗いようがありません。

長治の叔父、重棟は長治、友之、吉親の三人が切腹するならば城兵の命は助けると説得。長治はこれに応じます。秀吉は城内へ酒を2、3樽送り、長治らは家族や家老たちと盃を交わしたそうです。

切腹することになったよと言われた吉親は首を晒されるのはごめんだと言って城を焼き打ちしようとして止められ、殺されてしまったという話もあります。真偽のほどは分かりません。

長治らは子や妻を手にかけ自刃。ここに三木城は陥落します。秀吉は諸役免除、開城前の債務破棄などを掲げた制札を出し、三木の復興に努めました。

城兵は助かったのか否か

城主の切腹は城兵を殺さないことが条件になっていたわけですが、実際は城兵も殺されていた可能性があるようです。秀吉や宇喜多直家の書状には城兵も悉く殺されたと記されているらしく、助けたというのは美談にするためのでっち上げかもしれないとのこと。これだと長治が報われないような。

いろいろあった二兵衛

三木城の攻防は2年ほどに及ぶ長期戦で、その間に竹中重治(半兵衛)が病没。武士ならば戦場で死にたいと言い、陣中にて亡くなります。黒田孝高(官兵衛)は荒木村重を説得に行って捕まって牢に押し込められて助け出されて殺されたはずの息子が半兵衛に匿われて生きていたというすったもんだな目に会っています。

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