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戦禍に巻き込まれた甲子園。満身創痍から出発した戦後

甲子園にも聞こえてくる軍靴の音

1924年(大正13年)の開場以来、中等野球(現在の高校野球)と、1936年(昭和11年)から始まった職業野球(現在のプロ野球)のファンを数多く集めた甲子園球場。しかし、戦争の影は確実に甲子園にも忍び寄ってきた。

職業野球が開始した翌年の1937年(昭和12年)に勃発した盧溝橋事件がきっかけで日中戦争が始まった。また、日本の中国大陸進出を脅威に思っていたアメリカとの関係は悪化の一途を辿り、野球は敵国(アメリカ)生まれのスポーツとして睨まれるようになったのである。

甲子園を本拠地としていた大阪タイガースも英語使用をやめ、「阪神軍」と名乗るようになった。甲子園で戦車大博覧会が行われたのもこの頃である。

戦時中、1度だけ復活した中等野球

1941年(昭和16年)夏、全国各地で中等野球の地方大会が行われていた頃、突然甲子園大会の中止が決定した。日中戦争は泥沼化し、もはや中等野球どころではなくなったのである。しかし、職業野球は細々と続けられた。その年の日本時間12月8日、日本海軍は真珠湾を奇襲し米英に対して宣戦布告、遂に太平洋戦争が勃発したのである。

ところが、翌1942年(昭和17年)夏に、中等野球の全国大会が甲子園で復活した。ただし、主催は従来の大阪朝日新聞社ではなく、文部省と大日本学徒体育振興会である。

そのため、現在ではこの大会の記録は除外されている。ルールも、よほどの大怪我ではない限り選手交代は認められず、死球の際にもボールを避けることは許されないなど、野球にも軍国主義が入り込んでいた。

なぜ戦争真っ只中に中等野球が行われたのか?それは日本軍が緒戦で大勝し、戦勝ムードが漂っていて、国威発揚に利用したのだろうと思われる。

しかし実際には、その2ヵ月前にミッドウェー海戦で初の敗北を喫し、さらに甲子園の大観衆が中等野球に熱狂していた頃、ガダルカナル島ではあまりにも無残な日本兵の死体が多数横たわっていた。もちろん、その事実は国民には知らされなかったのである。

供出される、甲子園名物の大鉄傘

戦局は悪化の一途を辿り、42年以降は中等野球が行われることもなかった。職業野球は続けられたが、多くの選手が兵隊に取られ、まともな戦力も整わない。

そして軍部は、甲子園の内野席を覆う大鉄傘に目を付けた。甲子園に大屋根を供出させ、軍艦を造ろうというのである。軍には逆らえず、大鉄傘を神戸製鋼に9万円という超安値で買い取られ、甲子園は丸裸となった。

しかも大鉄傘は軍艦建造には向かず、放置されていたという。この事実を知った甲子園関係者は、はらわたが煮えくり返る思いだった。軍部が大鉄傘を供出させた真の目的は、他の施設に金属回収させるための宣伝目的だったと言われる。

米軍に狙われる甲子園

敗戦が差し迫った1945年(昭和20年)1月を最後に、遂に職業野球も中止された。野球が行われなくなった甲子園は、内野の土部分が芋畑、外野の芝生は軍用トラック置き場となった。スタンド下は軍需工場となり、室内プールは潜水艦研究に使用された。もはや甲子園は球場ではなく、軍事施設と化したのである。

同年の8月6日、即ち広島に原子爆弾が落とされた日に、甲子園を米軍のB-29が襲った。5千発とも言われるおびただしい数の焼夷弾がグラウンドとスタンドに突き刺さり、甲子園は三日三晩燃え続けたという。もし甲子園が軍事施設ではなく球場のままだったら、米軍に狙われることもなかっただろう。甲子園は戦争の犠牲者となった。

終戦後、米軍に接収された甲子園

太平洋戦争は日本の無条件降伏により終わりを告げた。しかし甲子園は進駐軍に接収されてしまった。進駐軍に占拠された甲子園では野球を行うことはできず、翌1946年(昭和21年)夏には中等野球が復活したものの、全国大会が行われたのは甲子園ではなく西宮球場だった。

中等野球の関係者は、翌1947年(昭和22年)の春のセンバツ大会はぜひ甲子園でやらせてくれ、と神戸にあった連合軍司令部に連日連夜押しかけた。その血の滲むような苦労の甲斐あって、ようやく春のセンバツは甲子園で行うことができたのである。甲子園に野球が帰って来たのだ。

戦後に復興する日本と甲子園

1951年(昭和26年)8月には、内野席の大屋根が復活。ジュラルミン製だったため大銀傘と呼ばれた。甲子園が本来の姿を取り戻したのだ。そしてサンフランシスコ講和条約により日本の主権が回復し、その2年後の1954年(昭和29年)には、ようやく進駐軍による接収が完全に解除された。甲子園が日本の手に戻ったのである。

その後も甲子園は日本野球の象徴で有り続けた。アメリカには甲子園より歴史の古い球場はあるが、戦禍に巻き込まれた球場はない。まさしく甲子園は、戦争に明け暮れた20世紀の生き証人たる球場と言えよう。