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天正遣欧使節の長い長い船旅。帰ってくると禁教令

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2014.04.28

1582年2月、天正遣欧使節は旅立ちます。しかしその数カ月後、キリスト教に好意的だった織田信長は本能寺の変で討たれ、使節団が帰国したときには豊臣秀吉によって禁教令が布かれていました。

聖職者養成所セミナリヨ

イエズス会の宣教師、アレッサンドロ・ヴァリニャーノはキリスト教布教のため学校を設立したいと信長さんにお願いしてOKを貰います。セミナリヨ(神学校)は安土と有馬に建てられ、有馬のセミナリヨに使節として選ばれた少年たちは在学していました。

お金がない

ヴァリニャーノは布教のための資金をせびる・・支援してもらうため、そして本場のキリスト教を体験させ日本での布教に役立てようと、使節をヨーロッパに送ることを提案。キリシタン大名の大友宗麟、大村純忠、有馬晴信の名代として少年たちを異国へ送ることになります。

天正遣欧使節の愉快な仲間たち

主席正使の伊東マンショは日向伊東家の血筋で本名は祐益(すけます)と言われています。大友宗麟の遠い縁戚にあたるらしく、宗麟の名代となります。島津に城を攻められた際に父を失い、8歳のマンショは豊後へ逃れるもはぐれて彷徨っているところをセミナリヨの司祭に保護されたとか。その後セミナリヨに入ることになったようです。

本当は安土セミナリヨにいた祐勝(いとこ)が行く予定だったのに長崎発の船に間に合いそうもないから代わりに有馬セミナリヨにいたマンショが行くはめになったとか。そんな行き当たりばったりな。

もう一人の正使、千々石ミゲルは大村純忠の甥っ子かつ有馬晴信の従兄弟のため二人の名代となります。本名は紀員(のりかず)とのこと。後に棄教して清左衛門と名乗ります。父を戦でなくした後、大村を頼り、洗礼を受けセミナリヨへ入ります。

原マルチノと中浦ジュリアンは副使として選ばれます。マルチノは波佐見の出身で原中務の子といわれています。ラテン語に優れ、帰る途中にゴアで演説をしたとか。ジュリアンは本名を小佐々甚吾といい、中浦城主の息子とのこと。マルチノもジュリアンも大村純忠の息子に仕えていました。

四人は齢13前後の少年。ヴァリニャーノの他に通訳のメスキータ神父や教育係のロヨラ修道士(日本人)、活版印刷技術を習得する要員としてドラード(日本人)という少年なども同行しています。

ヴァリニャーノ離脱

マカオに風待ち滞在した後インドのゴアに着くと、何やら別の仕事をしなくてはならなくなったらしいヴァリニャーノはロドリゲス神父と交代。言いだしっぺがいなくなったものの、使節は船旅を続けます。喜望峰を回り、大航海の末やっとポルトガルのリスボンに到着。そこから陸路でスペインへ向かいます。

偉い人と謁見

スペイン国王フェリペ2世に謁見。次にローマに至り教皇グレゴリウス13世と謁見します。ジュリアンは具合が悪くて一緒には謁見できなかったようですが、後に個別で対面したそうです。東の果てから遥々やってきた使節は歓待を受け、ローマ市民権まで頂きます。彼らのことはかなりの話題になったようです。

舞踏会に出ることになった少年たち。ジュリアンは緊張してか、お婆さんにダンスを申し込んだとのこと。ほほえましいですね。

グーテンベルクの印刷機などを携え、使節は帰途につきます。ところがどっこい日本は彼らが旅立った時とは違っていました。信長の死後、秀吉によってキリスト教禁制が布かれ、彼らはなかなか入国を許されなかったのです。

戻ってきたヴァリニャーノと共にやっとこさ秀吉に面会できたものの、布教をするに厳しいという状況は変わりませんでした。ヴァリニャーノも命が危ないかもしれないと国外へ逃れます。

マンショは布教を続けたといいます。ミゲルは棄教、マルチノはマカオに追放。ジュリアンは布教していましたが囚われ、逆さ吊りの刑に処されてしまいます。

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