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本当の教育は人物をつくるもの。リーダー教育不在の教育界を斬る

今の教育はある意味で迷走していると感じるのは私だけでしょうか。何が本物であるかという所を見失っているような気がします。それは極論すれば、「リーダー教育がなされていない」ということではないかと思うのです。

平等と公平は別のもの

全ての子供は等しく人権を持っています。それはそのとおりです。しかし、資質・能力・適性は決して万人平等ではありません。

全ての子供を平等に扱わなければ非民主的だという考えに疑問はないのでしょうか。ここで大切にすべきなのは「平等」ではなくて「公平」です。平等にすることは時として「不公平」になるということを知るべきです。

それぞれに適した教育が必要

税で考えてみます。万民一律に同率の税をかければ平等ではあります。「平らで等しい」のが平等ですから。しかし累進課税にすれば不平等にはなりますが、かえって公平感は増すでしょう。何でも等しく配分することは悪平等というものであり、不公平な態度なのです。子供と大人に同量の食事を与えたら公平とは言えませんよね。

つまり、資質・能力・適性に応じた教育をしなければ公平とは言えないのです。民主主義の中には、「人は皆同じものである」という啓蒙思想的な認識が隠れています。教育を受ける権利を持つという点では確かに平等です。でも適性は十人十色であり、それにふさわしい教育を施してこそ公平なのです。

江戸時代の教育のスタイル

江戸時代の武士の教育は朱子学で行われていました。君子の学と言われました。士大夫を育てる学問です。リーダーたるにふさわしい教養を持ち、修己治人を能くする統治者を養成する学問です。プライドを教えました。恥をそそぐためには死をも恐れぬような魂を育てました。自分一個のことよりも、国を憂え組織を尊び、生かされている恩義に報いることの大切さを教えていたのです。

庶民は朱子学ではなく、石田梅岩などの説く「心学」的な良識によって生きていました。それは伝統的な仏教・神道・儒教・道教などを折衷した、一種の日本教でした。農工商の民はしぶとく現実的で、状況適応力に満ちています。ゼロ成長社会にあって、倹約を尊び勤勉を旨としていました。

民主主義教育だけでいいのか

現代教育では、民主主義思想を基盤として個人の自由・人権・平等・平和の尊さなどを教えています。その思潮は地球を覆う勢いであり、日本の進路はそれで間違っているとは思われません。

でも少し待ってください。このままアメリカナイズしていくだけでは、どこか違う気がするのです。アメリカは武力による覇権主義の負の方向をあられもなく露呈しつつあります。自分の土俵に乗ってこない国を「悪の枢軸」だと名指しして、力任せに制圧していくことが正義でしょうか。中国とて同質なことをあからさまに展開しています。

真のリーダーにはポリシーが不可欠

文明国の仲間入りをした日本が、このまま何の主体性もなくアメリカのポリシーを無批判に墨守していくだけで、果たして満足できるのでしょうか。ヨーロッパ各国を見ますと、通貨はユーロで統一していても、それぞれの国の文明・文化を盛んに発揚して、独自の在り方を見せているではありませんか。

米国追随が一番安全だからと言って、それ以外に何の哲学もなしに国の運営ができますか。民族の独自性が保てますか。政治家は、しっかりしたポリシー・哲学を国民に示さなければならないはずです。真のリーダーとは、そういう哲学を持った人のことだと言えましょう。

教育が人間学から遠ざかってしまった

そういう意味でのリーダーを養成する教育が今の日本にあるとは、残念ながら私には思えません。それは恐らく、人々が自己の尊敬するリーダーに「仕える」という、一種の「人間関係におけるセンス」を喪失していることと無関係ではありますまい。

心底から人物を「畏敬し」、自ら進んでその人に「仕える」ということの人間的な「至福」を今の学校教育はなぜか教えようともせず、いたずらに知識技術のみを頭に叩き込んで「足れり」としているように見えます。人間性を鍛え上げて「窮しても困惑せず、憂えても心衰えず」という君子人を育成する本当の「学問」から遠ざかっているように思われます。

アメリカが日本の魂を抜き取ったのかも

人品骨柄という言葉が死語になっています。人格には高貴もあれば卑賤もあります。これは人を差別して蔑むものではありません。そのことに目覚めることから、人間学が始まるのです。

日本の教育からリーダー教育が欠落してしまったのは、敗戦の時からかもしれません。アメリカ人が日本人から、ある意味の魂を抜き取ってしまったのだとも思われます。何も江戸時代に戻れと言うのではありません。歴史に学び、日本人は日本流のリーダー教育を取り戻さなければ悲しいということを指摘したいと思います。